山手本通りから庶民的な商店街がつづく山元町の街区にさしかかります。一世代前の懐かしい雰囲気を漂わすアーケードが続きます。そんなアーケードが途切れるあたりに、でかでかと横文字で書かれた大きな看板が見えてきます。
米軍住宅の看板
COMMANDER U.S.FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA
YOKOHAMA DETACHMENT
NEGISHI NAVY HOUSING COMPLEX
アメリカ海軍 横須賀指令官
横浜分遣
根岸海軍住宅
と見るからに米軍のベース(基地)らしい色合いの看板です。ようするに米国の横須賀駐留の海軍兵士の住宅地であることを示しています。距離的にはJR石川町駅からはさほど離れていない距離なのですが、こんなところにまだ米軍の住宅地が置かれているのですね。
大きな看板を見ながら「日米共同使用区域」である住宅地入口への坂道を上って行きます。突き当りに米軍住宅地の入口(ゲート)が置かれ、ガードマンの見張り小屋がゲートに置かれています。
米軍住宅のゲート
このゲートの右手に芝生の大きな円形広場があり、その向こうにまるでヨーロッパの古城を思わせる堂々とした建造物が現れます。3つの塔を持つこの建造物が突然現れたことに驚きを覚えるとともに、この蔦が生い茂る異様な建物がいったい何なのか、ましてや米軍住宅に隣接し、近づきがたい要塞のような建物は初めて見るものにとっては奇異な景色としか思えません。
競馬場「馬見所」の建物
競馬場「馬見所」の建物
競馬場「馬見所」の建物
実は前述の米軍住宅に隣接して広大な「根岸森林公園」が広がっています。この根岸森林公園はかつて日本初の洋式競馬場である「横濱競馬場」だったところで、3つの塔をもつ異様な建物はちょうど馬場の正面ストレッチを眺める一等観覧席として使われた「馬見所(うまみどころ)」と呼ばれたものだったのです。この建物は昭和5年(1930)に建設されたもので、ある種歴史遺産としてはたいへん重要なもののように思えます。
根岸森林公園
ちょっとした感動を覚えながら、米軍住宅に隣接する緑濃い根岸森林公園へと進んでいきます。この公園は前述のように日本初の洋式競馬が行われた場所なのですが、その前身はなんと江戸末期の慶応3年(1867)に当時の外国人クラブが競馬を主催していたのです。その後、明治13年に日本競馬クラブに運営が移譲され、昭和13年に戦争で閉鎖されるまでここで競馬が行われていました。戦後は競馬場は米軍に接収され、米軍住宅やゴルフ場に姿を変えたのですが、昭和44年に一部が接収解除となり、昭和52年に森林公園として一般公開されました。広大な敷地の中には、かつてはゴルフコースであったことを偲ばせるなだらかな地形がうねるように続いています。
根岸森林公園
ここも日本というより、昔訪れたことのあるドイツ・西ベルリンにあったティアガルテンと呼ばれる市民公園を彷彿させる雰囲気が漂っています。素晴らしい環境というよりほかに言葉がでてきません。夏は濃い緑に覆われているこの公園は、秋には見事な紅葉を楽しめる場所に違いありません。
ゴルフコースを思わせる森林公園
公園内のトレイルを歩き、ほぼ半周したあたりのレストハウスから森林公園を退出することにしました。公園を出て道なりに進むと、今度は米軍消防署(米軍第5消防署)のベースを思わせる横文字が現れてきます。まさにアメリカといった雰囲気が漂っています。この消防署は米軍住宅専用のもので、日本の一般家屋の火災ではたとえ目の前で家が燃えていても絶対に消防車は出動しないらしいのです。逆に米軍住宅内での火災の場合は日本の消防車はよほどの要請がないかぎり出動しないと思います。
米軍第5消防署
この米軍専用消防署からさほど離れていない場所にもう一つ、有名な場所があります。それはあの人気歌手である「松任谷由美さん(当時は荒井由美)」の歌の中で出てくるレストランが今でも健在なのです。曲名は「海を見ていた午後」で歌詞の中に現れる「ドルフィン」というレストランがここなのです。今から38年も前に作られた曲なのですが、当時とはこのあたりの景色はかなり変わってしまったのではないでしょうか。
レストラン「ドルフィン」
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
(荒井由実「海を見ていた午後」より)
ドルフィンを過ぎ、根岸の丘陵地帯を徐々に下って行くのですが、途中「白滝不動尊」の祠と断崖から流れ落ちる一筋の滝を見てからいったん下界へと戻ることにしました。
白滝不動尊
白滝
白滝不動尊の石段
この後、本牧エリアにあるアメリカ坂、本牧山頂公園、本牧神社までは平坦な道がつづき、またそれほどの見どころはありません。白滝不動尊から歩くこと30分ほどで本牧山頂公園につづくアメリカ坂にさしかかります。歩き始めてからおよそ7キロほどでしょうか、ここにきてのアメリカ坂は体にこたえます。坂を上りきると本牧山頂公園の入口です。広い公園の敷地を進んでいくと本牧埠頭を一望できる見晴台に到着です。
アメリカ坂
本牧山頂公園
この見晴台から本牧神社へとつづくトレイルを下ると境内へと誘われます。比較的新しい本社殿は横浜の港を見下ろす高台の中腹に鎮座しています。
本牧神社社殿
本牧神社から本牧通りに沿って進むと、本牧エリアへと入っていきます。バブル最盛期にはこの界隈はマイカル本牧と呼ばれ、いくつものショッピングモールが立ち並び、多くの人で賑わうお洒落な町だったようですが、バブル崩壊後はこれらのショッピングモールは撤退し、現在その跡はイオンやイトーヨーカドーといったスーパーマーケットに姿を変えています。
今から30年前頃の本牧は横浜とは隔絶されたある種独特の雰囲気をもった地域で、米軍住宅地を抱えるアメリカの香りが漂う場所だったようです。しかも本牧は江戸時代から横浜村とも一線を画した漁村で、言葉も違っていたと言います。
そんな本牧を有名にしたのがアメリカの文化がいち早く上陸し、特にアメリカのR&Bと言われる音楽やファッションの発信地となったことです。私たちの年代であれば一世を風靡した和製R&Bグループである「ゴールデンカップス」の故郷といえばピンとくるのではないでしょうか。当時はこの本牧はかなり「やばい」場所で、東京ナンバーの車はあっという間に「ボコボコ」にされたといいます。但し、品川ナンバーの車は入境が許されていたそうですが…。
クラブ「ゴールデンカップ」外観
あのゴールデンカップスが夜ごと活動していた伝説のクラブ「ゴールデンカップ」が今でも営業しています。本牧通りに面してその看板を見つけた時は、言い知れぬ感動を覚え、とっさにシャッターを落としました。「長い髪の少女」を歌うデイヴ平尾を思い出しながら、終着地点の山下公園を目指しました。
本牧から横浜をむすぶ見晴トンネル
炎天下の下で、この年になって初めて見る横浜の顔にかなり感動し、さらに我が青春時代の淡い思い出をほんの少し回顧できた瞬間でした。
横浜山手の妙香寺は国歌君が代発祥の地~ついでに日本吹奏楽発祥の地でもあるんです~
真夏の横浜ヒストリー・ウォーク~初めて見る横浜(其の壱)
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米軍住宅の看板
COMMANDER U.S.FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA
YOKOHAMA DETACHMENT
NEGISHI NAVY HOUSING COMPLEX
アメリカ海軍 横須賀指令官
横浜分遣
根岸海軍住宅
と見るからに米軍のベース(基地)らしい色合いの看板です。ようするに米国の横須賀駐留の海軍兵士の住宅地であることを示しています。距離的にはJR石川町駅からはさほど離れていない距離なのですが、こんなところにまだ米軍の住宅地が置かれているのですね。
大きな看板を見ながら「日米共同使用区域」である住宅地入口への坂道を上って行きます。突き当りに米軍住宅地の入口(ゲート)が置かれ、ガードマンの見張り小屋がゲートに置かれています。
米軍住宅のゲート
このゲートの右手に芝生の大きな円形広場があり、その向こうにまるでヨーロッパの古城を思わせる堂々とした建造物が現れます。3つの塔を持つこの建造物が突然現れたことに驚きを覚えるとともに、この蔦が生い茂る異様な建物がいったい何なのか、ましてや米軍住宅に隣接し、近づきがたい要塞のような建物は初めて見るものにとっては奇異な景色としか思えません。
競馬場「馬見所」の建物
競馬場「馬見所」の建物
競馬場「馬見所」の建物
実は前述の米軍住宅に隣接して広大な「根岸森林公園」が広がっています。この根岸森林公園はかつて日本初の洋式競馬場である「横濱競馬場」だったところで、3つの塔をもつ異様な建物はちょうど馬場の正面ストレッチを眺める一等観覧席として使われた「馬見所(うまみどころ)」と呼ばれたものだったのです。この建物は昭和5年(1930)に建設されたもので、ある種歴史遺産としてはたいへん重要なもののように思えます。
根岸森林公園
ちょっとした感動を覚えながら、米軍住宅に隣接する緑濃い根岸森林公園へと進んでいきます。この公園は前述のように日本初の洋式競馬が行われた場所なのですが、その前身はなんと江戸末期の慶応3年(1867)に当時の外国人クラブが競馬を主催していたのです。その後、明治13年に日本競馬クラブに運営が移譲され、昭和13年に戦争で閉鎖されるまでここで競馬が行われていました。戦後は競馬場は米軍に接収され、米軍住宅やゴルフ場に姿を変えたのですが、昭和44年に一部が接収解除となり、昭和52年に森林公園として一般公開されました。広大な敷地の中には、かつてはゴルフコースであったことを偲ばせるなだらかな地形がうねるように続いています。
根岸森林公園
ここも日本というより、昔訪れたことのあるドイツ・西ベルリンにあったティアガルテンと呼ばれる市民公園を彷彿させる雰囲気が漂っています。素晴らしい環境というよりほかに言葉がでてきません。夏は濃い緑に覆われているこの公園は、秋には見事な紅葉を楽しめる場所に違いありません。
ゴルフコースを思わせる森林公園
公園内のトレイルを歩き、ほぼ半周したあたりのレストハウスから森林公園を退出することにしました。公園を出て道なりに進むと、今度は米軍消防署(米軍第5消防署)のベースを思わせる横文字が現れてきます。まさにアメリカといった雰囲気が漂っています。この消防署は米軍住宅専用のもので、日本の一般家屋の火災ではたとえ目の前で家が燃えていても絶対に消防車は出動しないらしいのです。逆に米軍住宅内での火災の場合は日本の消防車はよほどの要請がないかぎり出動しないと思います。
米軍第5消防署
この米軍専用消防署からさほど離れていない場所にもう一つ、有名な場所があります。それはあの人気歌手である「松任谷由美さん(当時は荒井由美)」の歌の中で出てくるレストランが今でも健在なのです。曲名は「海を見ていた午後」で歌詞の中に現れる「ドルフィン」というレストランがここなのです。今から38年も前に作られた曲なのですが、当時とはこのあたりの景色はかなり変わってしまったのではないでしょうか。
レストラン「ドルフィン」
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
(荒井由実「海を見ていた午後」より)
ドルフィンを過ぎ、根岸の丘陵地帯を徐々に下って行くのですが、途中「白滝不動尊」の祠と断崖から流れ落ちる一筋の滝を見てからいったん下界へと戻ることにしました。
白滝不動尊
白滝
白滝不動尊の石段
この後、本牧エリアにあるアメリカ坂、本牧山頂公園、本牧神社までは平坦な道がつづき、またそれほどの見どころはありません。白滝不動尊から歩くこと30分ほどで本牧山頂公園につづくアメリカ坂にさしかかります。歩き始めてからおよそ7キロほどでしょうか、ここにきてのアメリカ坂は体にこたえます。坂を上りきると本牧山頂公園の入口です。広い公園の敷地を進んでいくと本牧埠頭を一望できる見晴台に到着です。
アメリカ坂
本牧山頂公園
この見晴台から本牧神社へとつづくトレイルを下ると境内へと誘われます。比較的新しい本社殿は横浜の港を見下ろす高台の中腹に鎮座しています。
本牧神社社殿
本牧神社から本牧通りに沿って進むと、本牧エリアへと入っていきます。バブル最盛期にはこの界隈はマイカル本牧と呼ばれ、いくつものショッピングモールが立ち並び、多くの人で賑わうお洒落な町だったようですが、バブル崩壊後はこれらのショッピングモールは撤退し、現在その跡はイオンやイトーヨーカドーといったスーパーマーケットに姿を変えています。
今から30年前頃の本牧は横浜とは隔絶されたある種独特の雰囲気をもった地域で、米軍住宅地を抱えるアメリカの香りが漂う場所だったようです。しかも本牧は江戸時代から横浜村とも一線を画した漁村で、言葉も違っていたと言います。
そんな本牧を有名にしたのがアメリカの文化がいち早く上陸し、特にアメリカのR&Bと言われる音楽やファッションの発信地となったことです。私たちの年代であれば一世を風靡した和製R&Bグループである「ゴールデンカップス」の故郷といえばピンとくるのではないでしょうか。当時はこの本牧はかなり「やばい」場所で、東京ナンバーの車はあっという間に「ボコボコ」にされたといいます。但し、品川ナンバーの車は入境が許されていたそうですが…。
クラブ「ゴールデンカップ」外観
あのゴールデンカップスが夜ごと活動していた伝説のクラブ「ゴールデンカップ」が今でも営業しています。本牧通りに面してその看板を見つけた時は、言い知れぬ感動を覚え、とっさにシャッターを落としました。「長い髪の少女」を歌うデイヴ平尾を思い出しながら、終着地点の山下公園を目指しました。
本牧から横浜をむすぶ見晴トンネル
炎天下の下で、この年になって初めて見る横浜の顔にかなり感動し、さらに我が青春時代の淡い思い出をほんの少し回顧できた瞬間でした。
横浜山手の妙香寺は国歌君が代発祥の地~ついでに日本吹奏楽発祥の地でもあるんです~
真夏の横浜ヒストリー・ウォーク~初めて見る横浜(其の壱)
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