2016年のGWの後半は賑やかな鶴岡八幡宮を避けて、少し奥まった道筋を辿ることにしました。初夏というより夏本番を思わせる陽気に誘われ多くの観光客が鎌倉を訪れています。
賑やかな鎌倉駅前からバスで「鎌倉宮」へ向かいます。鎌倉宮までバス路線に沿って歩いても1.9kmと苦にならない距離なのですが、強い陽射しのもとでの「徒歩」はあきらめました。あっという間にバスは鎌倉宮に到着です。若宮大路の賑わいとは異なり、静かな雰囲気が漂っています。
鎌倉宮の大鳥居
さて、今回「鎌倉宮」の参詣を選んだ理由は「護良親王(もりなが)」という人物が祀られているからなのですが、実は東海道五十三次の街道筋には護良親王の首塚や首洗い井戸が少なくとも2か所現れます。その一つが戸塚宿に入るちょっと手前に「首洗い井戸」、そして沼津宿に入る手前の黄瀬川の畔にある「智方神社」には「首塚」が置かれています。
そんなことで「護良親王」については東海道を歩きながら、その折々に人物について案内していましたが、親王が壮絶な最後を遂げた鎌倉の地に創建された「鎌倉宮」を訪れたことがなかったのです。今回は護良親王を深く知るための鎌倉訪問です。
それでは「護良親王」について歴史をひも解いてみましょう。
後醍醐天皇の皇子である護良親王は幼い頃から仏門に入り、比叡山延暦寺の天台座主にもなっています。
※天台座主とは
天台宗の総本山である比叡山延暦寺の管主(住職)のことで、天台宗の諸末寺を総監する役職です。「山の座主」とも呼ばれていました。中世以降、摂家門跡、宮門跡の制度が整い、天台三門跡(妙法院・青蓮院・三千院)から法親王が天台座主として就任することが多くなりました。護良親王も天台座主となった法親王の一人です。
時は元弘元年(1331)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕を目的とした「元弘の乱」が起きます。この時、天台座主であった護良親王は還俗して参戦します。そして足利尊氏や新田義貞らの参戦により、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉幕府滅亡後、護良親王は尊氏に対して敵意をいだき、自らの兵力を増強していきます。というのも「尊氏はわずかな戦で勝利を得て、万民の上に立ち権勢を得ようとしている。そうであればまだ勢力が小さいうちに尊氏を討っておいた方がよい」という考えがあったようです。
討幕後、京都では尊氏は上洛した武士を集めて京都支配の指揮を強めていきます。一方、護良親王は尊氏の勢力を警戒し、信貴山に拠り尊氏を牽制します。両者の対立を見た後醍醐天皇はその妥協策として、護良親王を征夷大将軍に任命します。
そして討幕後の翌年の1334年に年号が「建武」と定められます。武家政権から天皇親政へと順調に移行するはずだったのですが、新たに発する新令も機能せず、新政権内に混乱が生じ始めます。
護良親王と対立を深める尊氏は後醍醐天皇に「親王は帝位を奪うため諸国の兵を募っている。」と奏聞し、護良親王の令旨を差し出しています。これを聞いた後醍醐天皇は「親王を流罪に処すべし」と拘束し、建武元年(1334)の11月15日に鎌倉へ流され、尊氏の弟である直義に身柄を預けられました。鎌倉に送られた護良親王は二階堂の土牢(現在の鎌倉宮がある場所)に押しこめ、約9か月の幽閉生活を送ることになります。
土牢
時代は鎌倉幕府から新政へと移行していたのですが、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が勃発していました。そして建武2年(1335)の7月に「中先代の乱」がおこります。この乱は北条高時の遺児である時行が叔父の奏家と共に挙兵し、一時的に鎌倉を占拠したものです。
この時、鎌倉を守っていた足利直義は時行が護良親王を奉じて、新政権に対抗するのではと危惧し、淵辺義博に命じて護良親王を殺害し鎌倉を逃れたのです。
斬首された護良親王の首は理智光寺に葬られたと伝えられ、現在この場所は宮内庁が正式に護良親王の墓と認定した場所です。尚、理智光寺は明治初期に廃寺になっています。
理智光寺跡碑
このように悲運の最期を遂げた護良親王を祀るため、明治2年(1869)に明治天皇が自ら創建したのが「鎌倉宮(大塔宮)」です。我が国の歴史の中で、天皇が自ら創建した神社は鎌倉宮だけです。御祭神はもちろん「護良親王」です。
それでは大鳥居をくぐり境内へと進んでいきましょう。緑濃い裏山を背景にして石段と二の鳥居、そしてその奥に拝殿が控えています。
境内
二の鳥居と拝殿
二の鳥居をくぐると拝殿が現れます。
拝殿
拝殿の右脇には、「南方社」と「村上社」の2つ境内社が置かれています。 「南方社」には、護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘「南の方」を祀っています。そして「村上社」は「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られています。
村上社前には村上義光の鎧姿の木像が置かれています。この像は「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとされています。尚、この像は平成16年(2004)に置かれたもので新しいものです。
村上義光像
境内の一部は有料拝観エリアのため、拝観料を納めて入場します。拝観料:大人300円
鎌倉宮パンフレット
入口から拝殿横を進んで、本殿の裏手の一画に護良親王が幽閉されていたとされる「土牢」があります。土牢の入口は木の柵が嵌められているので中を見ることができません。
土牢
本殿の裏手は木々が生い茂る森になっています。深閑とした森の中を進んで行くと「御構廟」と書かれた木札が現れます。ここは淵辺義博が護良親王の首を置いて逃げ去った場所と伝えられています。うち捨てられた首は前述の理智光寺の僧によって今はなき理智光寺に葬られたのです。
護良親王は淵辺義博によって斬られる時、義博の刀を噛み折り、死んでも放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったと伝えられています。
御構廟
境内
境内から見る本殿
本日の護良親王を辿る旅はまだ終わっていません。鎌倉宮は護良親王が幽閉され、斬首された場所です。そうであれば親王が眠る墓を詣でて旅が完結します。ということで宮内庁が正式に認める親王の墓へと向かうことにしました。
かつて理智光寺があった場所は鎌倉宮から500mほど歩きます。ただし護良親王の墓への案内板や矢印はありません。理智光寺があった場所にはその跡地を示す「石碑」が置かれています。
理智光寺跡碑
この跡碑が置かれている場所に相対して護良親王の墓への入口があります。玉垣に囲まれた入口を入ると「後醍醐天皇皇子・護良親王墓」と刻まれた石柱が置かれています。
護良親王墓の石柱
さすが宮内庁認定の正式な墓所ということでかなり綺麗に整備されています。墓所といっても平坦な場所ではなさそうで、入口から眺めるとかなりの段数の急峻な石段が山の上にのびています。どれほどの段数があるのか登ってみなければわかりません。
墓所へのびる石段
意を決して、墓所へとつづく石段を登りはじめました。かなり急な石段で、手すりもなく息絶え絶えで一気に登っていきます。石段は木々が生い茂る山の中へとのびています。私たちが訪れた時、ここを訪れている人は誰もいません。雰囲気的にちょっと不思議な感覚を覚える場所のような気がします。一人では来たくない場所です。ましてや暗くなってからはぜったいに来たくない場所です。
穿った見方をすれば、壮絶な最後を遂げた護良親王の怨念が生き続けているような雰囲気を漂わせています。
石段
石段は2段階に分かれて山の上へとのびています。登ってきた石段を数えるとなんと172段もありました。石段を登りきると墓域の入口が現れます。
墓域の入口
墓域の入口の門はかたく閉ざされています。その門の前には誰が置いたのか「供え物」が…。墓の入口の門の向こうには苔むした石段がさらにつづき、ちょうど山頂にあたる場所に十六文の菊の御紋がついた門が見えます。ここが護良親王の墓所です。
護良親王の墓
確かに宮内庁管理の正式な墓といった雰囲気を漂わせています。それほど長居はしたくないので、そそくさと登ってきた石段を下ることにしました。それにしてもGWの最中だというのに、私たち以外に誰も訪れないこの場所はいったい何なのだろう。来てはいけない場所に来てしまったのだろうか?
調べてみると、南北朝の動乱期には護良親王の怨霊による祟りがあったということが「太平記」に記述されているようです。そして現代の世でもこの場所は心霊スポットとして有名な場所のようです。
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賑やかな鎌倉駅前からバスで「鎌倉宮」へ向かいます。鎌倉宮までバス路線に沿って歩いても1.9kmと苦にならない距離なのですが、強い陽射しのもとでの「徒歩」はあきらめました。あっという間にバスは鎌倉宮に到着です。若宮大路の賑わいとは異なり、静かな雰囲気が漂っています。
鎌倉宮の大鳥居
さて、今回「鎌倉宮」の参詣を選んだ理由は「護良親王(もりなが)」という人物が祀られているからなのですが、実は東海道五十三次の街道筋には護良親王の首塚や首洗い井戸が少なくとも2か所現れます。その一つが戸塚宿に入るちょっと手前に「首洗い井戸」、そして沼津宿に入る手前の黄瀬川の畔にある「智方神社」には「首塚」が置かれています。
そんなことで「護良親王」については東海道を歩きながら、その折々に人物について案内していましたが、親王が壮絶な最後を遂げた鎌倉の地に創建された「鎌倉宮」を訪れたことがなかったのです。今回は護良親王を深く知るための鎌倉訪問です。
それでは「護良親王」について歴史をひも解いてみましょう。
後醍醐天皇の皇子である護良親王は幼い頃から仏門に入り、比叡山延暦寺の天台座主にもなっています。
※天台座主とは
天台宗の総本山である比叡山延暦寺の管主(住職)のことで、天台宗の諸末寺を総監する役職です。「山の座主」とも呼ばれていました。中世以降、摂家門跡、宮門跡の制度が整い、天台三門跡(妙法院・青蓮院・三千院)から法親王が天台座主として就任することが多くなりました。護良親王も天台座主となった法親王の一人です。
時は元弘元年(1331)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕を目的とした「元弘の乱」が起きます。この時、天台座主であった護良親王は還俗して参戦します。そして足利尊氏や新田義貞らの参戦により、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。
鎌倉幕府滅亡後、護良親王は尊氏に対して敵意をいだき、自らの兵力を増強していきます。というのも「尊氏はわずかな戦で勝利を得て、万民の上に立ち権勢を得ようとしている。そうであればまだ勢力が小さいうちに尊氏を討っておいた方がよい」という考えがあったようです。
討幕後、京都では尊氏は上洛した武士を集めて京都支配の指揮を強めていきます。一方、護良親王は尊氏の勢力を警戒し、信貴山に拠り尊氏を牽制します。両者の対立を見た後醍醐天皇はその妥協策として、護良親王を征夷大将軍に任命します。
そして討幕後の翌年の1334年に年号が「建武」と定められます。武家政権から天皇親政へと順調に移行するはずだったのですが、新たに発する新令も機能せず、新政権内に混乱が生じ始めます。
護良親王と対立を深める尊氏は後醍醐天皇に「親王は帝位を奪うため諸国の兵を募っている。」と奏聞し、護良親王の令旨を差し出しています。これを聞いた後醍醐天皇は「親王を流罪に処すべし」と拘束し、建武元年(1334)の11月15日に鎌倉へ流され、尊氏の弟である直義に身柄を預けられました。鎌倉に送られた護良親王は二階堂の土牢(現在の鎌倉宮がある場所)に押しこめ、約9か月の幽閉生活を送ることになります。
土牢
時代は鎌倉幕府から新政へと移行していたのですが、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が勃発していました。そして建武2年(1335)の7月に「中先代の乱」がおこります。この乱は北条高時の遺児である時行が叔父の奏家と共に挙兵し、一時的に鎌倉を占拠したものです。
この時、鎌倉を守っていた足利直義は時行が護良親王を奉じて、新政権に対抗するのではと危惧し、淵辺義博に命じて護良親王を殺害し鎌倉を逃れたのです。
斬首された護良親王の首は理智光寺に葬られたと伝えられ、現在この場所は宮内庁が正式に護良親王の墓と認定した場所です。尚、理智光寺は明治初期に廃寺になっています。
理智光寺跡碑
このように悲運の最期を遂げた護良親王を祀るため、明治2年(1869)に明治天皇が自ら創建したのが「鎌倉宮(大塔宮)」です。我が国の歴史の中で、天皇が自ら創建した神社は鎌倉宮だけです。御祭神はもちろん「護良親王」です。
それでは大鳥居をくぐり境内へと進んでいきましょう。緑濃い裏山を背景にして石段と二の鳥居、そしてその奥に拝殿が控えています。
境内
二の鳥居と拝殿
二の鳥居をくぐると拝殿が現れます。
拝殿
拝殿の右脇には、「南方社」と「村上社」の2つ境内社が置かれています。 「南方社」には、護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘「南の方」を祀っています。そして「村上社」は「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られています。
村上社前には村上義光の鎧姿の木像が置かれています。この像は「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとされています。尚、この像は平成16年(2004)に置かれたもので新しいものです。
村上義光像
境内の一部は有料拝観エリアのため、拝観料を納めて入場します。拝観料:大人300円
鎌倉宮パンフレット
入口から拝殿横を進んで、本殿の裏手の一画に護良親王が幽閉されていたとされる「土牢」があります。土牢の入口は木の柵が嵌められているので中を見ることができません。
土牢
本殿の裏手は木々が生い茂る森になっています。深閑とした森の中を進んで行くと「御構廟」と書かれた木札が現れます。ここは淵辺義博が護良親王の首を置いて逃げ去った場所と伝えられています。うち捨てられた首は前述の理智光寺の僧によって今はなき理智光寺に葬られたのです。
護良親王は淵辺義博によって斬られる時、義博の刀を噛み折り、死んでも放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったと伝えられています。
御構廟
境内
境内から見る本殿
本日の護良親王を辿る旅はまだ終わっていません。鎌倉宮は護良親王が幽閉され、斬首された場所です。そうであれば親王が眠る墓を詣でて旅が完結します。ということで宮内庁が正式に認める親王の墓へと向かうことにしました。
かつて理智光寺があった場所は鎌倉宮から500mほど歩きます。ただし護良親王の墓への案内板や矢印はありません。理智光寺があった場所にはその跡地を示す「石碑」が置かれています。
理智光寺跡碑
この跡碑が置かれている場所に相対して護良親王の墓への入口があります。玉垣に囲まれた入口を入ると「後醍醐天皇皇子・護良親王墓」と刻まれた石柱が置かれています。
護良親王墓の石柱
さすが宮内庁認定の正式な墓所ということでかなり綺麗に整備されています。墓所といっても平坦な場所ではなさそうで、入口から眺めるとかなりの段数の急峻な石段が山の上にのびています。どれほどの段数があるのか登ってみなければわかりません。
墓所へのびる石段
意を決して、墓所へとつづく石段を登りはじめました。かなり急な石段で、手すりもなく息絶え絶えで一気に登っていきます。石段は木々が生い茂る山の中へとのびています。私たちが訪れた時、ここを訪れている人は誰もいません。雰囲気的にちょっと不思議な感覚を覚える場所のような気がします。一人では来たくない場所です。ましてや暗くなってからはぜったいに来たくない場所です。
穿った見方をすれば、壮絶な最後を遂げた護良親王の怨念が生き続けているような雰囲気を漂わせています。
石段
石段は2段階に分かれて山の上へとのびています。登ってきた石段を数えるとなんと172段もありました。石段を登りきると墓域の入口が現れます。
墓域の入口
墓域の入口の門はかたく閉ざされています。その門の前には誰が置いたのか「供え物」が…。墓の入口の門の向こうには苔むした石段がさらにつづき、ちょうど山頂にあたる場所に十六文の菊の御紋がついた門が見えます。ここが護良親王の墓所です。
護良親王の墓
確かに宮内庁管理の正式な墓といった雰囲気を漂わせています。それほど長居はしたくないので、そそくさと登ってきた石段を下ることにしました。それにしてもGWの最中だというのに、私たち以外に誰も訪れないこの場所はいったい何なのだろう。来てはいけない場所に来てしまったのだろうか?
調べてみると、南北朝の動乱期には護良親王の怨霊による祟りがあったということが「太平記」に記述されているようです。そして現代の世でもこの場所は心霊スポットとして有名な場所のようです。
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