大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

世良田東照宮~新田源氏のふる里・徳川氏発祥の地~

2016年05月01日 09時22分22秒 | 地方の歴史散策・群馬県太田市世良田東照宮
かねてより訪れてみたいと考えていた世良田東照宮への参拝を実現しました。神君家康公を祀る東照宮を巡ってきましたが、どういうわけか世良田の東照宮の参拝だけが残っていました。というのも世良田という場所が辺鄙な場所にあることに加え、アクセスの不便さと周辺の観光名所の少なさなどから、重い腰をあげることができませんでした。

世良田東照宮・拝殿

意を決して、GWの休みを利用して世良田東照宮へ行くことにしました。アクセスは浅草から東武伊勢崎線の特急「りょうもう」で太田まで行き、普通列車に乗り換えて世良田駅へと向かいました。浅草から太田まで約1時間20分です。太田から世良田駅まではわずか3駅です。

比較的賑やかな雰囲気の太田を出ると、車窓には田園風景が広がります。そんな風景を眺めていると世良田駅に到着します。予想はしていたのですが、ホームから見る世良田駅の周辺は畑が広がり、駅前には商店街どころか、お店がまったくありません。そして世良田の駅で降りたのは私たちだけという、なんとも寂しいかぎりです。ホームを歩いていると、線路脇に「徳川氏発祥の地」と書かれた木柱が1本置かれています。

線路脇の木柱

「とんでもないところ」に来てしまった! と思いつつ改札に向かうと、無人状態。自動券売機もありません。一応、トイレはあります。

世良田駅舎

さあ!どうしようか? と駅舎の周りを見回すと「無料レンタサイクル」の貸出が駅舎の真ん前にありました。人の気配がまったく感じられないので、営業しているのかどうかわかりません。建物の中に入ると、管理人のおばさんがでてきました。一通りの手続きを済ませ、無事自転車を借りることができました。欲しかった観光案内のパンフットもここで入手できます。

※世良田駅周辺には商店は一軒もありません。ましてや客待ちのタクシーなど期待できません。世良田駅から東照宮までの距離は約1.4kmです。歩いてもさほど苦にならない距離です。

それにしても神君家康公を祀る東照宮を間近に控える駅とは思えない寂しさです。駅前の片隅に薄汚れたイラストマップの看板が置かれているだけです。国宝認定の東照宮ではありませんが、それなりに歴史的意義のある歴史的建造物を保有する土地としては、もう少し観光誘致に力を入れてもいいのではと思うのは私だけでしょうか。

イラストマップ

世良田東照宮へは駅前からつづく道をまっすぐに進んで行きます。途中、それらしい店を探しましたが、コンビニもありません。そうこうするうちに、東照宮が鎮座する「歴史公園」に到着です。

さて、この歴史公園ですがエリアとしては大きく分けて古刹「長楽寺」東照宮の境内の二つから構成されています。長楽寺については後ほど詳しく説明しますが、とりあえずは東照宮境内へと向かうことにします。

境内マップ

東照宮境内へとつづく参道入り口には「東照宮」と刻まれた石柱が置かれています。

東照宮の石柱
東照宮へつづく参道

参道の右側一帯は長楽寺の寺領で、蓮池や渡月橋、三仏堂が置かれています。そんな景色を眺めながら進んで行くと参道はT字路にさしかかります。東照宮はこのT字路を左折します。

御存じのように東照宮は神君家康公を神として祀る社殿のことをいいます。家康公は戦国時代の天文11年(1542)に三河岡崎で生まれ、幼少の頃、8歳から駿河今川氏の下で「人質生活」を送り、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるまでの10年間にわたり岡崎を離れ、駿府で生活をしていたのです。

今川の下での人質生活から解放された家康公は、その後三河岡崎へ戻り、三河平定へと乗りだし、戦国乱世の中へ身を投じることになります。しかし若き家康にとって、戦国乱世の中で生き抜くことは至難の業ではありせん。

そんな家康公の足取りを簡単な年表に記してみましょう。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれる。家康公は人質から解放される(家康公19歳)
永禄6年(1563)三河一向一揆(家康公23歳)
元亀元年(1570)信長と共に浅井・朝倉を破る(家康公28歳)
元亀3年(1572)三方原の戦いで信玄に大敗する(家康公31歳
天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼を破る(家康公34歳)
天正10年(1582)武田を駿河から一掃する(家康公41歳)
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで秀吉と戦う(家康公43歳)
天正18年(1590)小田原北条氏攻め(家康公49歳)→江戸へ移封される
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い(家康公59歳)
慶長19年(1614)大坂冬の陣(家康公73歳)
元和元年(1615)大坂夏の陣(家康公74歳)
元和2年(1616)家康公死去(家康公75歳)

幾多の危機を乗り越え、関ヶ原の戦いで勝利した家康公は天下人となり、慶長8年(1603)に武家の最高位である征夷大将軍に宣下され、江戸幕府の開幕となるのです。そして260有余年にわたる徳川幕府の開祖となるのですが、慶長10年(1605)にははやばやと将軍職を息子の秀忠公に譲ってしまいます。
その後、家康公は大御所として秀忠公を補佐し、駿府に住まうことになります。そして元和2年(1616)4月17日に家康公は駿府で75年の生涯に幕を下ろしたのです。薨去されたこの年(元和2年)、家康公は久能山に埋葬されるのですが、翌年には東照大権現として日光東照宮に祀られています。

さて家康公を神として祀る東照宮は全国に置かれていますが、そんな中で最も知られているのが日光東照宮、久能山東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮、仙波東照宮、上野東照宮ではないでしょうか。
これまで上に挙げた東照宮はすべて参拝しました。そして今回、これらの東照宮と肩を並べるほど歴史的意義がある「世良田東照宮」が私の東照宮巡礼の一ページに加わりました。

この歴史的意義とは、ここ世良田に置かれた東照宮社殿が実は二代将軍秀忠公が元和3年(1617)に日光山に初めて創建した東照宮社殿を移したものであるということなのです。それでは何故移したのかというと、三代将軍家光公は敬愛するお爺ちゃんである家康公のために、父である秀忠公が創建した日光東照宮の社殿を解体し、今私たちが見る絢爛豪華な日光東照宮を新たに造営したのです。そして寛永21年(1644)に秀忠公が造営した日光の東照宮社殿を世良田に移築したのでした。

そしてもう一つ、なぜ移築先が世良田だったのかというと、世良田が徳川氏の発祥の地であったことから、世良田の守護神として東照宮を移築したのです。

さらにもう一つ、なぜ世良田が徳川氏の発祥の地なのか、ということで、歴史をひも解いてみることにしましょう。

時は平安時代末期から鎌倉時代初期の頃、上野国に得川義季(とくがわよしすえ)/世良田義季なる武士がいました。この義季こそが清和源氏の新田氏の支流である得川/世良田の始祖と言われている人物です。
この義季が亡くなったのが鎌倉時代の寛元4年(1246)で、その後、頼氏、教氏、家時、満義と続きますが、後に続く政義、親季、有親は南北朝の南朝方として活躍します。
しかし九代目の親氏(ちかうじ)の時代に北朝に攻められ、ここ上野国の得川郷を追われ諸国を巡った後、三河の松平郷に辿りつきました。そこで、親氏は松平郷の郷主であった在原信重に入婿し、松平親氏と名乗ったのです。
この松平親氏が三河松平家の始祖であり、家康公は親氏から数えて7代目にあたります。
家康公は三河を平定した25歳の頃、自らの姓である松平を、始祖・親氏の旧姓である得川にあやかり、「徳川」と名乗ったのです。こういった歴史の流れの中で、世良田、得川、松平、徳川と繋がってくることで、ここ世良田に東照宮が勧請されたわけです。こんなことを頭に思い浮かべながら、世良田東照宮の参拝へ向かうことにします。

東照宮境内の入口に建つのが御黒門(ごくろもん)で、別名「縁結び門」と呼ばれています。

御黒門
御黒門脇

説明板によると、江戸時代には正月と四月の御祭礼日に開かれたといいます。地覆長押(じふくなげし)をまたいで参拝すると良縁が成就すると言われ、「縁結びの門」といわれています。

地覆長押:柱を水平方向につなぐ部材。ここでいう「地覆」とは柱の最下部のことを指します。

御黒門をくぐると広い境内が目の前に広がります。そして黒門をくぐるとすぐ左手に置かれているのが「上番所」です。

上番所

上番所からまっすぐ進んで行くと、世良田東照宮の鳥居が立ち、その奥に拝殿が見えてきます。

東照宮の鳥居と拝殿

私たちはまずは拝殿、正殿への参拝をするため、拝観料を納める社務所へと向かいます。
拝観料は大人一人300円です。拝観料を支払うと「東照宮のご案内」パンフレットをいただけます。

パンフレット

拝殿・正殿への入口はかなり粗末なものです。朱色の門の右手が拝観受付とお守りなどを販売する場所になっています。

入口

それでは拝殿前へと進んで行きましょう。どっしりとした感じの建物で、色合いは全体として少しくすんでいますが、装飾類は他の東照宮と同じように極彩色が施されています。この建物が元々、日光東照宮にあったもので寛永21年(1644)にここに移築されたものです。
ここに移築されて372年もの長い月日が流れています。もちろん国の重要文化財に指定されています。というか、どうして国宝にしていされないのか不思議です。

拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿内部

そして拝殿脇から回り込み、拝殿背後にある本殿へと進みます。本殿手前には透塀を両翼にもつ「唐門」が控えています。この唐門も日光東照宮から移築されたものです。

唐門
唐門と石燈籠

それでは唐門をくぐり本殿前へ進み、神君家康公にお詣りします。

本殿
本殿

本殿を辞して、境内を歩くと二葉葵の葉が茂っていました。ちなみに葵の葉は二葉が通常で、徳川家の家紋である「三つ葉葵」はあまり見ることがなく、変異であるといいます。ようするに四葉のクロバーみないなものなのでしょう。それにしても葵の葉をまじまじと見ることがなかったのでかなり感動です。



拝殿・本殿のエリアにはGWというのに我々以外に訪れる人はなく、ほとんど貸切状態の独り占めです。日光や久能山の東照宮はGWの今日はさぞや多くの人が訪れているのではと思いつつ、世良田東照宮の静かな佇まいに安らぎを感じたひとときです。

これでもかという位に、神君家康公とのふれあいを楽しみ、拝殿、本殿を辞することにしました。出口の脇にひときわ大きな燈籠が一基置かれています。石製ではなく鉄製の燈籠で、家康公が亡くなった翌年の元和4年(1618)に造られたものです。高さ5mを誇ります。

鉄燈籠
鉄燈籠

心ゆくまで堪能し、少し疲れたので境内隅におかれた無料休憩所で一休み。休憩所のおばちゃんが親切にもお茶を入れてくれました。
休憩後、東照宮の敷地に隣接した「長楽寺」へと向かうことにしました。

さて、長楽寺ですがその縁起はあの徳川の始祖である得川(世良田)義季が創建したと伝えられています。創建は承久3年(1221)で、東国で最初の禅寺であったといいます。
家康公が江戸に移封された天正18年(1590)年以降、徳川家祖先の寺院として重視し、そのあげくにはあの天海僧正を長楽寺の住職に任じ、さらにはそれまで臨済宗であったものを天台宗に改宗させてしまっています。

寛永17年(1640)に天海僧正は三代家光公に元和時代に造営した日光東照宮の旧奥社拝殿、唐門を世良田の長楽寺境内に移築することを願いでます。そして寛永21年(1644)に世良田に遷宮されたのです。
これにより長楽寺は東照宮別当として世良田東照宮を管理したのです。しかし明治の神仏分離で長楽寺と東照宮が分離し、東照宮は郷社格となります。

尚、幕閣のブレーンの一人であった天海僧正の力は絶大で、最盛期には末寺700の大寺院に成長しました。現在の長楽寺はかつての壮大な姿からは想像がつかないほど「凋落」し、江戸時代から残る遺構は勅使門(赤門)、三仏堂、太鼓門、開山堂などわずかな建造物です。

まずは長楽寺の総門とは別に置かれた「勅使門」へと向かうことにします。

勅使門(赤門)

この勅使門の築年代は不明ですが、おそらく寛永年間に遡るといわれています。勅使門といわれるくらいで、朝廷からの勅使がこられたときに使われるもので、別名「あかずの門」とも呼ばれています。

この勅使門の裏手に蓮池渡月橋があります。これらは鎌倉時代の遺構と伝えられています。蓮池は「心」という字を形作り、別名「心字池」とも呼ばれています。

渡月橋
心字池

渡月橋を渡ると、立派な三仏堂が姿を表します。この三仏堂は江戸時代の建造物です。堂内には阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩の三体が鎮座しています。三仏堂は県の重要文化財です。

三仏堂

三仏堂の脇から見えるのが太鼓門です。

太鼓門

築年代は江戸時代の初期と推定されています。楼上には太鼓がかけられ、時を知らせたり、合図に使われていたそうです。この太鼓門も県の重要文化財に指定されています。

太鼓門

太鼓門をくぐると木々が茂る森の中へと入っていきます。長い参道を進むと右手に「新田氏累代の墓」の供養塔が置かれています。

新田氏累代の墓

さらに進んでいくと小さな門が現れ、その奥にお堂が置かれています。このお堂は開山堂です。長楽寺の開山臨済僧・栄朝をまつる堂で堂内には栄朝の塑像が安置されています。

開山堂の門
開山堂

最後に長楽寺境内の文殊山得川(世良田)義季累代の墓がある場所へいってみました。
墓域の入口には「徳川義季累代の墓」と刻まれた石柱が一基置かれ、石段がつづいています。墓域には16基の宝塔(かなり崩れている)が整然と並んでいます。この中に徳川の始祖である義季の墓があるというが、定かではありません。

徳川義季累代の墓
墓域へとつづく石段
墓域俯瞰

念願の世良田東照宮を含む歴史公園の見学を終え、世良田地区の別の場所へ移動することにします。





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