月と太陽の見かけの大きさが同じなのは、ただの“偶然”、
たまたまそうなのであって、“力学的な必然”はない。
月は、およそ45億年前に、地球からわかれて生まれたときからあのサイズだ。
もちろん小さくも大きくも生まれる可能性はあったが、当然ながら、今のサイズでなければ、
見かけ上太陽と同サイズにはならない。
生まれたとき2万㌔の近くにあった月は、地球の海の満ち引きをつくっているうちに、
公転スピードに少しずつブレーキがかかり、公転がゆっくりになると共に遠ざかる。
月は地球から2万㌔のところからスタートし、90億年くらいかけて、50万㌔の位置まで遠ざかる(その時は47日で公転)。
現在は、その途中の38万㌔のところにいて、27日で公転している。
つまり、あのサイズと、あの距離を生むに至った時間経過の偶然性が、
現代人にとって(あるいは人類の存在にとって)絶妙な恩恵になっているのだと言える。
ある大都会で、ばったり旧友に会ったとする。
「いやぁ、めずらしい。偶然だなぁ。何年ぶりかなぁ」などと言うが、打ち合わせて会ったのではないから、
互いの時空が、偶然、バチンとそこでクロスしたわけで、それぞれの“時”がずれても
“空間=場所”がずれても出会うことはない。偶然とは、時空の、見事な一致である。
「四方上下これを“宇”といい、往古来今これを“宙”という」と中国の漢の時代の百科事典にあるという。
“宇宙”とは“時空”という意味なのだ。
だから、偶然とは宇宙の絶妙な一つの出来事なのだ。
私たちの存在は、悲しいほどすごい偶然のたまもの、宇宙の一致、こよなく貴重なものなのだ。
そのことを知って、お互いを大切にしよう。
山岡さんの「月のサイズの不思議さ」の示唆もあって、昨夜来、以上の“こじつけ”を考えた。
いつか子ども達に、かみ砕いてうまく話すことにしよう。
今月は、たまたま、日食・月食の特集をしているから都合がいいかも。
たまたまそうなのであって、“力学的な必然”はない。
月は、およそ45億年前に、地球からわかれて生まれたときからあのサイズだ。
もちろん小さくも大きくも生まれる可能性はあったが、当然ながら、今のサイズでなければ、
見かけ上太陽と同サイズにはならない。
生まれたとき2万㌔の近くにあった月は、地球の海の満ち引きをつくっているうちに、
公転スピードに少しずつブレーキがかかり、公転がゆっくりになると共に遠ざかる。
月は地球から2万㌔のところからスタートし、90億年くらいかけて、50万㌔の位置まで遠ざかる(その時は47日で公転)。
現在は、その途中の38万㌔のところにいて、27日で公転している。
つまり、あのサイズと、あの距離を生むに至った時間経過の偶然性が、
現代人にとって(あるいは人類の存在にとって)絶妙な恩恵になっているのだと言える。
ある大都会で、ばったり旧友に会ったとする。
「いやぁ、めずらしい。偶然だなぁ。何年ぶりかなぁ」などと言うが、打ち合わせて会ったのではないから、
互いの時空が、偶然、バチンとそこでクロスしたわけで、それぞれの“時”がずれても
“空間=場所”がずれても出会うことはない。偶然とは、時空の、見事な一致である。
「四方上下これを“宇”といい、往古来今これを“宙”という」と中国の漢の時代の百科事典にあるという。
“宇宙”とは“時空”という意味なのだ。
だから、偶然とは宇宙の絶妙な一つの出来事なのだ。
私たちの存在は、悲しいほどすごい偶然のたまもの、宇宙の一致、こよなく貴重なものなのだ。
そのことを知って、お互いを大切にしよう。
山岡さんの「月のサイズの不思議さ」の示唆もあって、昨夜来、以上の“こじつけ”を考えた。
いつか子ども達に、かみ砕いてうまく話すことにしよう。
今月は、たまたま、日食・月食の特集をしているから都合がいいかも。