うべプラネタリアン

プラネタリウム解説の活動を通じ、いろいろ感じたことをさまざまに語りたく....

宇部マテリアルズ....(B102)

2010年03月11日 21時31分49秒 | 史跡散歩
宇部興産の関連会社に宇部マテリアルズという会社がある。
以前の会社は宇部化学工業といった。
宇部化学の時代の主力製品は、マグネシアクリンカーと呼ばれる耐火物原料である。
海水からマグネシア分を取り出して2000℃以上の熱で焼くと耐火性にすぐれた鉱物ができる。
マグネシアクリンカーの出荷先は、耐火煉瓦メーカーであり、その先は鉄鋼大手である。
MgO純度の高いマグネサイトは日本に産出されないから、こうした合成鉱物でまかなわれた。
かっては世界の需要の30%くらいを供給し、国内と輸出にどんどん売れていた。
マグネサイトという鉱物は、石灰岩の変成岩の一種で、中国大陸では、ふんだんに天然に
産出する。中国産品は成分純度は低いが、当然猛烈に安い。
どんどん安価な中国品が供給されるようになると、あとは耐火材メーカーの使いこなし方ひとつだ。
ご多分に漏れず、国産マグネシアクリンカーは急速に競争力を失い、会社は存亡の危機に立たされた。
そんななかで、リストラや事業転換、企業合併を積極的に行い、いまや、耐火材原料としての
マグネシアクリンカーは宇部マテリアルズ社のほんの一部になっているが、
そこそこそうした生き残り策は功を奏し、このご時世でも会社は何とか動いている。
その証拠に、こんなご時世に会社ぐるみのOB会パーティをやるという。
年1回の会の開催は続いているから、重畳と言わざるをえない。
そのOB会会長を、私は、引き受けている。
さすがにパーティ以上のサービスはできかねるようだから、私は、会に集まるOB各位に、
現社長の事業報告とは違って、かっての宇部化学時代のマグネシアクリンカーの名残を
伝えたいと思った。
OB会とは古傷の舐めあいだから、ぶっちぎったキルンの残骸を、プロジェクターで
映し出すのも一興だろう。
さて...ちとやり過ぎだと言われるは、必定だな。
このページ、カテゴリーは「史跡散歩」に入れた。

原城趾 2 ....(B101-2)

2010年02月16日 17時31分10秒 | 史跡散歩
原城は島原半島の南端にある。
もともとこの地を治めていた有馬氏の城だったが、有馬氏は小西行長につながるもので
関ヶ原後宮崎に転封され、あとにきた松倉氏が島原に城を建てた。
その時彼の地の6万人の農民は、6年間で延べ100万人が動員され、過酷な労働と租税が掛けられた。
島原城が完成すると一藩一城の定めで原城は取り壊された。
過酷な年貢取り立てと労役と無体なキリシタン弾圧に抵抗して立ち上がった農民達の一揆は
あっという間にふくれあがり、ある場所は全村挙げてはせ参じ、総勢3万7千人が
16歳の益田(天草)四郎時貞をいだいて、廃城の原城に立てこもった。
時は、三代将軍家光。
鎮圧に乗り出した九州各藩は、難攻の名城だった原城の地形や、攻め手側の足並みの乱れもあって、
多大な犠牲を強いられたが、事態を重く見た幕府は老中松平信綱ひきいる12万の軍勢で取り囲んだ。
兵糧責めや、オランダ軍の艦砲射撃、はたまた内通者の潜入など手を尽くして大がかりな攻城戦を展開し、
女子供までことごとく斬り死にするなど惨殺の果てに3ヶ月に及ぶ一揆は鎮圧された。
今でも埋められた城の石垣の間からは白骨が出るという。
原城本丸跡に小さな一尺五寸程度の石塔が建ち、摩耗したかすかな字は天草四郎時貞之墓と読める。
有明海の寒風の中で、そこはひときわ風が重い。

原城....(B101)

2010年02月15日 23時11分33秒 | 史跡散歩
1638年2月28日天草四郎の死によって、原城は陥落し、88日間におよぶキリシタンの一揆
島原の乱は終結した。
一揆側 37000人が死に、攻城幕府側も死者6000人を越え、原城はすさまじい血に染まった。
城趾に立つと踝を洗うように風が吹く。殷々とした風がわたる。
私は歴史の影の、その風に吹かれているのが大好きなのだ。
ただし、胴震いが起き、よほど寒さに耐えねばならぬ。

龍馬の背中....(B93)

2009年11月16日 20時45分17秒 | 史跡散歩
土佐の高知の桂浜に立つ龍馬像。
なかなかいい銅像で、龍馬人気とは別にこの銅像の人気は一人歩きをする。
いい人物は後ろ姿がいい。いい像はそれを映さねばならぬ。
これは、全く、前も後ろも申し分ない。
画像にした場合でも、海を撮さなくても、彼はちゃんと海を見ている。
昨日職員旅行で土佐に行ったので。

吹屋の里....(B92)

2009年05月05日 21時38分49秒 | 史跡散歩
岡山県高梁市の近くに吹屋の里と呼ばれる、小さな古い街並みがある。
5/4、ここまで片道350㌔のドライブをした。
あえて中国縦貫道をとったがこれ大正解。連休まっただ中の日だったが、全く渋滞はなかった。
吹屋の里は、かって江戸末期、ベンガラの生産販売で栄えた街だ。
昔の面影を残す大きい店の連なる村街道が、今、観光地になっている。
多く映画のロケ地にも使われてきたが、大型観光バスの入れない不便さも手伝ってか、
訪れる人は連休中といえど少ない。
古い街並みを残す長府も萩もすてきだが、ベンガラの色に染まる吹屋の里は、独特の風情がある。
人の営み、苦しみや悲しみが、沈んだベンガラの紅に幾重にも重なって、静もった風が吹く。
初夏の日差しの中でも、くるぶしのあたりにどこか寒い風が漂う感覚は、ふるえるほどいい。
夕日に染まる黄昏どきに訪れると、美しさと怖さで、鳥肌が立って容易に引かないだろう。
このたたずまいは、私のお気に入り、お薦めのベスト5にいれよう。

下松神社(ご祈祷)....(B91-3)

2009年05月04日 22時07分17秒 | 史跡散歩
由来・縁起はなにやらよくわからぬが、大内氏のルーツの山口市大内に古い妙見社があり、
降松神社はそのゆかりになるらしい。
縁起を記した説明文の祭神に「星の神」とあるのは素直にうれしい。
だから、私としては普段より多めの(10倍もの)賽銭を投じて、7月22日の晴天祈願をしておいた。
しかし、帰りの車の中で、ハタと気付いたことがある。
「どうか7月22日が晴れますように」と祈ったが、どこが晴れて欲しいのか、
場所を告げなかったような気がするのだ。
えてして神様はけちくさいから、御利益は期待できないかも....

降松神社(献灯)....(B91-2)

2009年05月04日 21時51分53秒 | 史跡散歩
妙見社だから、献灯にも星が印してある。
もちろん星の神様と知ってそのようにしたのだろうが、北辰なら北辰らしく、
星を北斗七星のならびに置けよと、言いたい。
まして、献じたのが現代(平成10年と記してあった)なのだもの。
でも、でも、星好きにとってみれば、こんな献灯をみるとうれしい。

下松神社....(B91-1)

2009年05月04日 21時41分02秒 | 史跡散歩
下松市の「くだまつ」の由来となった神社がある。
正しくは降松神社という。
高台に堂々たる社殿を構え、大内氏ゆかりの神社だ。
松の木に星が降ったという由来をもち、隕石がご神体とされたこともあるが、
現在はどうやらそのご神体は行方不明らしい。
いずれにしろ、星に由来の神様らしく、妙見本宮降松神社とある。
妙見とは北辰、即ち北斗七星だ。

いつか史跡に....(B85)

2008年10月16日 21時26分26秒 | 史跡散歩
この画像のお屋敷はいつか史跡になるのかも
知れない。
その時は、門の側の説明文にこう書かれているだろう。
「かって日本の政治は自民党という政党が政治を司ってきたが、
その自民党の最後の総裁の自宅がここである」と。
まあそうなるのかならないのか、来月末(?)の総選挙の結果次第だろうが、
私たちは野次馬だから、柳原白蓮と伊藤伝右衛門の壮烈な夫婦げんかの
舞台となった飯塚を訪れるなら、今関心を集めているここに寄らぬ訳には
いかない。それにしても、まあなんと、警備の警官の愛想のいいこと。
あえて遠景の画を載せる。バックの山も森もすべて邸宅の一部。

名護屋城趾....(B84)

2008年10月15日 22時52分22秒 | 史跡散歩
豊臣秀吉が何を血迷ったか、
突然朝鮮出兵を言い出した。
その出城として、唐津呼子に壮大な城を築いた。
それが名護屋城である。広くもない半島に
40万近い軍勢が集結し、入り組んだ入江を埋め尽くして
何千という軍船がひしめいた。
国内外に威勢を示すためだけに城は築かれ、秀吉の死をもって
朝鮮出兵が終結すると、そのまま不要城となり、ページは終わった。
それだけの歴史しかない城だが、燦然と存在感を示している。
プランも城も、無駄といえば、何もかも無駄だったが、
壮大な城を一年も満たない間に作り上げた秀吉と加藤清正達の配下の
采配は見事としか言いようがない。
現代の機械力を持ってしてもまず不可能といえよう。
廃城は、それだけで存在感があり、広がる秋の空は今も昔も美しい。