うべプラネタリアン

プラネタリウム解説の活動を通じ、いろいろ感じたことをさまざまに語りたく....

満杯の水....(F102)

2010年06月06日 21時15分20秒 | 弘三師
1974~1986年の12年間、私は、宇部化学工業㈱(現宇部マテリアルズ㈱)輸出部勤務で、
東京暮らしだった。
その時の上司は井上弘三氏で、輸出部の常務。
氏は同時に茨城県古河市の名刹足立山野田院宗願寺の住職だった。
氏が亡くなったのが1995.6.14。ついこの間のようだが15年経った。
あのときゃ泣いたなぁ。親父が死んだときもあんなにゃ泣かなかった。
ご命日には古河市の宗願寺に眠る師のお墓におまいりする。欠かしたことはない。
いまだにその時は、目の奥に水がいっぱいになる。すり切りいっぱいの水の入った
コップをかかえているようで、ちょっとしたことで水があふれるのだ。
困ったことにどうにも仕方がない。
6/8から関東行脚だ。

虚仮....(F101)

2010年04月12日 22時10分08秒 | 弘三師
世俗は所詮虚仮なりと、親鸞聖人の教えをバカの一つ覚えで守ってきたから、
世俗のいかなることも恐れることはなかった。
自分もずいぶん世俗の中であがいてきたが、自分のあがきを見る目があった。
それは仏智といってもいいだろう。そこに精神の自由があった。
そんなことを語った弘三師の手紙が古い鞄の中から出てきた。
宛先は名古屋時代の私信だから、平成6年、16年も前の便りだ。
もうすぐ、さ来月は弘三師の命日。師が空に昇って(あるいは地に潜って)15年も経つか。
愛別離苦....

決心、攻撃、矢は左....(F81)

2008年01月07日 22時05分09秒 | 弘三師
なんというタイトルだろう。
こんな言葉を知っているのは、今や日本でも限られた人々に違いない。
別の話を書くつもりだったが、古い友から「決心、攻撃、矢は左」なんて台詞を聞いたものだから、
忘れていたことがバッと胸に拡がって、矢も楯もたまらず記している。
この言葉を聞くことがなくなって、四半世紀経つ。
東京時代だった。私は三十台だった。
弘三師は、旧陸軍経理学校を出て任官した、れっきとした職業軍人だった。
師が教わった司令官の心構えの一つが、この言葉だと聞いた。
事に面して逡巡するな、判断に迷うときは、攻撃。積極的に前へ。
方法も瞬時に決める、左方から放つ。
と、方針を決めたら、細心かつ大胆に事に当たる。
鮮やかだったなぁ、あのころのビジネスは。
私の底抜けのプラス思考は、この言葉で裏打ちされた。
...けっしんこうげきやはひだり...呪文のように酔ったものだ。

濱田、読んだか。

しばらく留守をしていました....(F2)

2007年06月11日 22時22分24秒 | 弘三師
茨城県、水戸から古河に常陸太田にと縦横に旅をしてきました。
画像は、旅で会った妙なもの。見ての通り、孔雀。
孔雀なんてめずらしくもないけれど、変なのは、ケージに入ってないってこと。
いわゆる放し飼い。
これを見ていると、「くじゃく座」のイメージがわきませんか?
下館(現:筑西市)雨引山、雨引観音堂前にて。

しばらく、茨城の古河市にでむく....(F1)

2007年06月05日 22時00分41秒 | 弘三師
新しいカテゴリー「弘三師」を設ける。
井上弘三氏は、元宇部化学工業㈱国際部常務で、茨城県古河市の足立山野田院宗願寺の住職だった。
日本陸軍経理学校という当時最も優秀とされた学校を出て任官したバリバリの
職業軍人で、文武両道に秀でた人だった。
戦後すぐに東京大学に入り直し、宇部興産から、宇部化学に替わって国際ビジネスの最先端を駆けながら、
一方では、浄土真宗本願寺派のお寺の住職をこなすという変わったマルチの人だった。
それが私の上司だったのだから、私を、変わった人だと評するなら、
弘三師の影響が少し残っているからかもしれない。
また、そうだとするなら、それは私にとってのほめ言葉だ。
師が亡くなって12年。今年は十三回忌。
師とふれあった多くの人々が、遺徳を偲ぶというわけではないが、
何故か懐かしさに誘われて、全国から毎年集うのである。
もちろん奥様の妙澄様のお人柄も大きい。
お寺は、弘三師のお孫さんの直之氏が継ぐはこびになっている。
弘三師の思い出話も、宗願寺の寺歴についても、格別におもしろいので、
星の話の合間に、ぽつりぽつり語ることとしよう。