西神吉町をゆく(29) 太閤岩(たいこういわ)
志方城で、天6年(1578)8月、大事件が発生しました。
三木別所氏に味方した志方城方と織田・信長方の戦いが始まりました。
戦国時代、加古川地方の城主は、ほとんど毛利に味方した三木方につき、信長・秀吉と戦いました。
まず、野口の城が落城し、ついで、神吉城が信長方の大軍におしつぶされました。
その後、信長軍は志方城へ攻め寄せました。
志方城には10,00名が勇敢に戦い、小城にもかかわらず20日も抵抗したと言う説もあります。
この時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。
志方城の戦でも援軍は期待できませんでした。敗戦は確実の状況でした。
唯、戦うとすれば「勇敢に戦ったという事実を歴史に残す」という美学だけが支えの戦いになります。
城主・伊則の娘は、信長方の知将・黒田官兵衛の妻である。当然のこことして、説得はあったと思えます。
太閤岩
写真の岩は、羽柴秀吉が志方城を攻めた際にこの場所に本陣を置き、采配をとるときに座ったと伝えられている岩です。
西神吉町辻の北側の岩山にあり、眼下に広がる景色を堪能できます。周囲に視界を遮るものがなく、ここから中道子山城や神吉・加古川城があった場所、西は姫路までを見渡すことができます。
面白い伝承なのですが、秀吉がここに来たという記録はありません。
*写真:太閤岩と太の南に広がる西神吉町、そして加古川の中心部の風景です。