石の宝殿の謎(15)
東播磨はボーダー(境界)の地域
今回の話題は、話題が少し横道にそれますが、後の「石の宝殿の謎」の話のつごうで「石の宝殿の謎」の続きとしてお読みください。
加古川・高砂・稲美町・播磨町の位置を考えています。
律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。
大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津が機内です。
播磨は摂津に接していますが、畿内ではありません。東播磨は、畿内との接点の位置にありました。
この時代、東播磨は畿内の勢力下にあったのですが、都からは周辺部でした。
この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていました。
自らを維持する(守る)ためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。
東播磨は、古代より都の勢力と結びつきの強め、一方吉備(岡山)・出雲の勢力と対峙する場所にありました。
これは古代のことだけではありません。
戦国時代は、毛利(西軍)と信長(東軍)の国盗りの戦場となりました。
中央の豪族としても、辺境部を守り、攻撃する最前線の位置にあり、東播磨との結びつきを強めました。
東播磨は、いつも、そんな役割を演じてきました。
そして、そこには東西を分けるの加古川の流れがあります。
このことを頭の片隅に置いて、この後の「石の宝殿の謎」をお読みください。
*写真:古代日本を東西に分けた加古川
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