平岡町をゆく(12) 新井用水物語(3) 逆勾配
「新井(しんゆ)」については、『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利理組合連合会)等すばらしい研究書があるのでそれ等をご覧ください。
新井は図のように加古川大堰のところから、曇川(くもりがわ)・喜瀬川をこえて古宮(播磨町)大池まで約13キロを流れる用水です。
順調に進んだように見える工事も途中、さまざまな難工事にぶつかりました。
用水の取り入れ口から流れた水は、水足から坂元までは台地の麓をとおって古大内(ふろうち)に流れました。
そこから、新井は東に方向を変えています。ここも、新井の北は台地の面であり、南だけ堤をつくれば溝ができあがりました。
逆 勾 配
困ったことがおきました。二俣(平岡町)のところで地形がやや高くなっているのです。
坂元(野口町)から二俣まで水路の幅が一間半(2m70cm)、二俣から水の勢いを保つために、古宮まで一間としました。
工事は、順調に行ったかに見えたのですが、勾配の関係で二俣のところで水が、うまく流れてくれません。
伝兵衛は「流路を変更するべきか・・・」と、ずいぶん迷いました。名案が浮かびません。
食事が喉を通らない日が続きました。
ある日、妻に、そんな悩みをフッともらしました。
妻は、手桶に水を入れ「水は勢いをつければ高いところへも流れるのでは・・・」と伝兵衛に話しました。
これにヒントを得て、流を工夫したというエピソードが伝えられています。
真偽のほどはともかく、二俣あたりは困難な工事のようでした。
播磨町史『阿閇の里』(播磨町)は「・・なお、戦後のコンクリート舗装の時、逆勾配の部分は掘り下げている。例えば、二俣では30センチメートルも掘ったとのことである。(井上勝利氏談)」と書いています。
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