ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(5) 常光寺(1)・播磨西国三十三ヵ寺の観音霊場

2022-02-14 09:21:46 | 加古川市歴史探訪・神野町編

        神野町をゆく(5) 常光寺(1)・播磨西国三十三ヵ寺の観音霊場

 神野小学校の前身の天徳学校に続いて、話題を少し変え、常光寺について紹介しましょう。

 「神野小学校」は、常光寺の後続けます。

 

 西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。

 人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。

 第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。

 それは、まさに苦行の旅でした。  

 江戸時代になり、治安もよくなりました。

 交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼は、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。

 それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありません。

 苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。

 そこで考えられたのが「播磨の国に三十三ヵ寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳がある」としてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です。

 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。

 常光寺は、建武の三年(1336)、 開山されたとされていますが、その後、火災・戦火に会い衰えます。

 慶安元年(1648)、赤松氏の後裔である南室和尚を招き、中興の開山の祖として寺号も天徳山として再出発をしました。

 南室禅師は、「播磨西国三十三ヵ寺」を定め、「播磨の国の三十三ヵ寺めぐり」を盛んにしました。 

 写真:常光寺

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