風塵抄(4) 高砂町今津は、現加古川市尾上町今津から移住
高砂の今津町(赤く彩色した地域)の話です。
中世のころ加古川河口左岸に「今津村」がありました。
中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。
その今津村に慶長6年(1601)、藩主(池田輝政)から通達がありました。
内容は、「高砂へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。
中世に栄えたか今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると、かこがわの運ぶと砂の堆積により、その港としての機能を失ないつつあったのです。予想を超える砂の堆積でした。
そのため、姫路藩主は、新たに今津の人を右岸の高砂に移動させ、新しい城下町づくりをしました。
その後、一国一城制により、高砂城は廃され、本多忠政の時に、大きく変わり町場となりました。
結果、今津村は慶長・元和の頃に消滅しましたが、代わって、高砂の町に「(経済都市)今津町」が誕生しました。
*図:江戸時代中ごろの今津町周辺の地図。
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