2018年7月30日の神戸新聞に地元の歴史家・唐津哲男市は高砂市の市丸廟(いちまるびょう)について報告されいます。中島・今市は後に天領(東志方)と関係を持ちますので余話として転載させていただきました。
志方町をゆく(7) 余話:市丸廟(高砂市)
約300年前の1707(宝永4)年に富士山が大噴火し、今の神奈川県小田原市付近が、約1・5~2メートルの火山灰と溶岩に覆われた災害があった。幕府領だった高砂の今市と中島が小田原藩の避難地とされた。
同地区は加古川の支流である2本の荒井川に挟まれた地形のため、たびたび洪水に見舞われ、村人は疲弊していた。小田原藩から来た代官市丸又四郎はこの窮状を救済するため植林と竹の移植で堤防をつくり、弁財天と稲荷神社を勧請。それ以降村人は安心して生活することができた。
後年、村人は、堤防の一角に市丸又四郎の顕彰碑「市丸廟」を建立し、親しみを込めて「べざいさん」と呼んだ。(以下略)(わが町リポーター・唐津哲男氏の報告より)
以下は予告です。すでに紹介したように富士山の宝永大噴火の翌年(1708)、この地は小田原藩の領地になりました。
そして、ここ今市・中島の地は小田原が復興のなった延享4年(1747)こんどは一ツ橋藩の天領として江戸時代の最後まで続きます。
幕末、今市・中島は渋沢栄一が活躍する舞台となりました。
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