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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

学生と「格差」について考えたこと

2007年08月15日 | 社会問題
 前のエントリーから派生して考えたことをつらつらと書いてみた……。

 よく日本の学生は遊んでばかりで、欧米の学生の方がまじめに勉強をしていると、言われますが、実際はそう簡単な比較は出来ないだろう、というのが私の推測である(あくまで推測)。

 留学の時、一般の学生の中に放り込まれた際に感じたのは、これについて。というのも、あちらにも「不真面目な学生」というのはたくさんいて、おそらくその割合は日本のそれと大差がないと思われる。ただ、違うところは、日本の場合は、やる気のない学生も出席してくるし、そして何とか単位を取ろうとするのに対し、あちらでは、やる気のない学生はもとより出席などしてこない。

 あちらはただ単にやる気のない学生は表に出てこないのに対して、こちらはそうした学生も面倒を見ねばというシステムになっている、この点に違いがあるように思われる。

 ある日本の大学で仏語を教えている仏人の友人と日本の大学教育に話していた時のこと。

友人:「居眠りしている学生を起こさなきゃいけないのよ。日本の大学は、幼稚園みたい。」
私:「確かに、日本の大学はまじめに出席している学生には、全部単位を挙げなければならないからね。でも、フランスみたいに半分の学生を落とすことが出来るなら、講義なんてそんなに難しいことではないよ。」
友人:「たしかに。でも、仏の大学教員は本当に初めから半分の学生を落とすつもりで講義をしているのかしら?(初めから落とすつもりなのか、それとも結果としてそれだけの学生が落ちるのか?)、聞いてみたいところね」

 そんなに沢山の学生が落とされてどうなるのか? と考えるかもしれないが、そうしたシステムがあれば、当然だが、それに対する対応の仕方というのもあるもの。

 留学した際、ほんとうの「普通の学生」と付き合って、感じたことなのだが、彼らは「見切りが早い」ということ。ある学生などは、テストの際、問題を見て「こりゃだめだ」と思ったらしく、開始3分で教室を後にしたらしい。そういう「思い切りのいい学生」というのは、日本の学生には見あたらないように思われる。

 まあ、これは非常に中のよう友人が半分あきれながら笑い話として話してくれたものなので、仏でも希な事ではないかと思うが。他方日本でも、私のある講義では、白紙で答案を出されたことが数回ある。これなども、日本の試験制度の多くは、一定時間まで教室にとどまらねばならないのだから、どうせいるなら何か試しに書いてみれば良いのに……、と私などは思う。が、これは日本的に「あきらめの早い=見切りの早い」例なのだと思う。

 こうした「あきらめの良さ」(によって「無駄な努力」を節約すること)が、ヨーロッパでは、階級構造の維持にも一役買っているように思えなくもない。つまり、「階級差」を目の当たりにしても、その差を埋めようとはせず、あきらめてしまうということ。ブルデュー風に言えば、そうした戦略をとることこそが、彼ら(「普通の学生」)にとっては一番利益が引き出せる方策なのだ。

 しかし、諦めがいい、といって自分を卑下するわけではなく。というか、「あきらめのよさ」を持ちつつも、自分に自信を持っていられるのがおもしろいところ。

 面白いのは、日本の学生が「やる気もないのに出席をする」学生なら、仏の学生は「出席もしないのに自分がやる気があると思い込んでいる」学生だと言えるのではないだろうか?

 あちらの講義は、まともに単位を取ろうと思ったなら、予習復習をきっちりしないと合格点を取れないものだが、まじめに出席していない学生でさえ、「自分はmotiveだ」と主張する。この精神構造が私には理解できなかった(笑)。
 以前、新聞の記事で、欧米の学生は日本の学生に比して自分に自信を持っている、というアンケートの結果が記事になっていたが、そうしたメンタリティーの現実を目の当たりにした気がする(ただし、重要なのは、「自信を表に出すか出さないか」ということもあるが……)。

 いずれにしても、学生たちが自らの自信をどうやって維持するかというと、単位を落とせば「あの先生は教え方がへた」とか、大学を退学になれば「あそこの学生はエリート面している」とか主張したりする。

 当然なことだが、現実には多様な面、表と裏が存在するもの。「格差社会」には、それに対応する人々の「様々な戦略」があるのである。その「したたかさ」は、私個人は決して悪いものだとは思わない。


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