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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

最終審級と言説の政治

2007年12月30日 | 理論
 なにか仰々しいタイトルのエントリーだが、大した話ではない。なんというか、自分の興味関心やパースペクティブの変遷―などと言うとかっこいいが、要は「心変わり」(「転向」とも言うかもしれない)―について、書こうと思っただけのことである。ただし、多分「転向」と言うほどのものではないのかもしれないが。

 ここで様々に偉そうなことを言っているが、自分のことを振り返ってみると、様々な仕方で「問題関心」というか、「考え」が時期によって変わっていることに気付く。願わくば、そうした変化に自分が自覚的であること、あるいは事後的にしてもその変化に気付く者でありたい。

 自分の研究対象であるアルチュセールの理論にしても同様で、実のところ、一貫した考えというよりも右往左往した軌跡を描いていると自分でも思う。

 実を言うと、数年ぐらい前は、「アルチュセールの可能性」というのはもはや潰えてしまったのではないかと考えていた時期があった(これについては今後のエントリーで説明したい)。がしかし、ここに来て、「やっぱり可能性があるかも」と考え直すにいたっている。ちなみに、その考え直し方も、実に「ご都合主義的」なところがある(笑)。例えば、アルチュセールの有名な「最終審級」について。経済が最終審級をなすのだというアルチュセールの一説は、大きな非難を「ポストモダン陣営」から投げかけられたのだが、それについて、私は、「彼も筆が滑った」といい加減なことを考えていた(笑)。まあ、実際、彼が文章を書くときはその超人的なエネルギーで一気に書き上げてしまうので、そうした一説が中に入っていても不思議ではないという考えからでもあった。ちなみに、彼はあるとき、24時間で30数ページのテキストを書き上げたという(1ページにつき原稿用紙で3から4枚と換算すると、90~120枚を24時間[夕方から翌日の夕方まで]で書き上げたことになる)。 

 バリバールも、アルチュセールについてはそうした仕事ぶりを証言しているテキストを残している。

 ちなみに、アルチュセール自身はあるところで、「最終審級とは物質的な審級のことである」という再定義をしている。個人的には、materialismという根本に立ち返った定義で、また、マルクスの経済概念も、その本質において「自然と人間を取り持つ媒介」という定義だったことを考えると(正確には経済と言うよりも労働の定義と言うべきか)、それとも符合している定義の仕方だと思う。

 と、以上は実は、かつての考えなのだが、しかし最近は彼は「最終審級を保持していたからこそ後世まで残るかもしれない」と考えている。あるいは、彼が、否定的な意味での「ポストモダン派の政治」から逃れることができるのは、この最終審級を保持していたからであると。

 我々が翻訳したアルチュセールの『再生産について:イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』(平凡社)も、そこには古くさい「階級概念」や「階級闘争」、あるいは、「国家」への固執によってあふれているが、生産様式の問題を無視するのではなく(私の用語では、物質的な審級をオミットするのではなく)、それを見据えて(言説の次元あるいはイデオロギーを含めた)階級闘争を分析するアルチュセールの立場は、現代においてこそ、その真価を発揮すると言えるのかもしれない。そう考えている。

 そう考えるに至った理由については、後日のエントリーででも。


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