a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

大学の講義と「自己責任」:その2

2007年08月12日 | 研究生活
 前回の続きだが、「自己責任」という事で私が考えたのは、「設問を決定するくじ」に関連してのことであった。

 私としては、私自身の意図が一切入らない状態で、ランダムに設問の選択を行いたかったので、この「くじ」は、本当は学生に引いてもらいたいと考えていた(まあ、他にはサイコロで決めることも考えたのだが、それだとあまりにも真剣みを欠いていると誤解を与えかねないと考えたので、封筒を引くことにした)。

 ただ、学生からの申し出に「学生にくじを引かせるとその人が気にしてしまうから止めてほしい」という意見があったのだった。これは、私も心配していたことだった。とくに女子学生がくじを引くことになったら、気にしてしまうかもしれない。

 さて、私が海外の大学に在籍していたときの話をすると……、

 その時も女子学生が問題選択のくじを、すべての受講生を代表して引いたのだった(私は自由聴講の講義だったので実際には試験を受けていない)。さて、その学生は、意を決してバンっと机をたたくように一枚の封筒を選んだらしいのだが(それなりに緊張感があったのだろう)、幸い、その学生が選んだのはもっとも解答のしやすい設問だったのだとか。試験会場からは、歓喜の声がもれたとか(笑)。

 そうした「ドラマチックな場面」も一興だが(笑)、今回私が採用したのは、「もっとも難しい問題を学生が引いてしまった場合」も考えて、一人の学生が代表してくじを引くシステムを修正し、学生がシャッフルしたくじ(問題番号が入った封筒)を私が引く方法。
 また、学生がシャッフルするのも、あまり目立たないように、解答用紙を配っている途中であまり他の学生の注意を引かない方法で行ったのだった(協力してくれた学生が変に責を負うことがないように)。

 ただし、私が引いたものは「一番難しい問題」。まあたしかに、その責任(難しい問題を引いた責任)が学生にかかることはなかったのだが……。

 ただ、私がここで気になったのは、そうした「責任」のあり方、というか、その考え方である。そもそもランダムな方法を意図して採用された方法なのだから、喩え一人の学生が全受講生を代表してくじを引くことになっても、その責任など(どの設問が指定されるかなど)、その学生には一切責任がないはずである。

 そう考えると、そんな部分(くじの結果)に「学生が責任を感じる」などという変なことがなぜ起こるのだろうかと思われてくる。

 まあ、そこには、日本ではまだ「個人の責任」がどこの範囲まで問われるべきなのか?、同時にどの範囲外であれば「個人の責任」が問われないのか? が明確にされておらず、「個人主義の国」の仏では、そうした「個人の責任」の範囲が明確にされている、という事情が透けて見えるのである。

 といったことを考えた。

 ただし……、上の見立ては、あくまで「一般論」であって実際には事情は多様だろうが。
 おそらくは、仏でも「全学生を代表してくじを引く」なんてことはどの学生も嫌がるだろうし、また、運悪く山が外れて単位を落としてしまった学生はくじを引いた学生に八つ当たりもしたくなるだろう(こういう八つ当たりは実際にありそう:笑)。ただ言えるのは、「個人の責任」が問われる場面が多くなれば、それだけそれに対応する術(要は言い訳の仕方)も洗練されてくると思う(笑)。

 ちなみに、仮に今回の試験で学生が一番難しい問題のくじを引いてしまったら、「そもそもこんな方法を採用した先生(要は私)に責任がある」と主張すればすむだろう。これは別に責任転嫁ではなく事実だし(爆笑)。


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