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戦術と戦略3:具体的な社会現象について

2008年09月26日 | 理論
 戦術の方が戦略よりも先に来ると考えることができることは、前回・前々回のエントリーで言及したが、今回もそのつづきについて考えた。

 ブルデューのモデルについて言えば、具体的な戦術を可能にする技術を資本と名付けるわけだが、資本に基づいて戦略が選択され、そして、具体的な場面に入る、というわけになる。

 具体的戦術を可能にする資本>戦略>戦術

 ちなみに彼の用語によれば、上の「戦術」の部分は、「ゲームの感覚」などの言葉で表されるだろう。

 いきなりモデルの話から、具体的な社会の問題に移るが、現在大阪府で全力学力テストの結果を市町村ごとに発表するかしないか議論されているが、個人的に言えば、それぞれの自治体(と、それでもってそこで生活する子供たちやその保護者たち)が、どのような資本の状況に置かれていて、それに基づきどのように行動するかを勘案せねば、「公表によって競争を促す」ということはできないと思われる。
 住居の移動が頻繁で、通常の社会であれば、「地区ごとの結果の公表」は、人口の移動を起こすだけで、競争を促すことにも、学力向上をどう気づけることにもならないと思う。つまり、公表によって起きる現象は、成績の悪いA市から成績のよりよいB市に多くの人々が引っ越す、という結果をしか生まないだろう。おそらくアメリカ(といってもアメリカも広いので一概に言えないだろうが)は、こうした例ではないか。
 先日、若者の社会資本に関する英の文献を読んでいたのだが、英の研究者によると、日本では家庭環境よりも居住地区の方が大きい影響をもたらすようである。

 いずれにしても、置かれている社会状況がそれぞれに違い、それに基づいて行為も変わってくる以上、一律に公表するか否かを議論しても、あまり意味がないように私には思われるのだ。

 が、他方で、上で言及したような「住居の移動が頻繁な社会」では、状況の如何によらず、「結果を公表しろ」という圧力が大きくなるのではないかと思う、つまり結果があきらかになれば逃げ出すべきか、逃げるとすればその先はどこかを決定しやすいので。でも、私が仏で見た現実によれば、そうしたテストの結果によらずとも、社会の(よって教育の)格差は概観から見て明確だが:ただし仏自体は、移動が盛んな社会ではなく、この場合は越境などの「例外措置の申請」がとられることがおおい。この場合、教育に相対的に多くの関心を払う家庭では、子供たちを地区外の学校に通わせようとする。

 しかし、こうしたことを考えつつも、ブルデューに関して言えば、別のことも言えるのではないかと考えている。というのも、ブルデュー自身は、「ゲームの感覚」なる用語を用いつつも、その内容を詰めてはいない。また、彼のモデルが精緻化されていないというのは、よくある批判であるし、それも事実だろう。

 しかし、他方で、先ほどのような図式、戦術のバリエーションを決定づける資本があって、それに基づき戦略が練られ、さらにゲームの感覚によって具体的場面で戦術が選ばれる、というのは、どうも「ウソくさい」ようにも思われる。言い方を変えると、人間の行為はそこまで合理的に行われるとは、私には思われないのである。

「戦術のバリエーションを決定づける資本があって、それに基づき戦略が練られ、さらにゲームの感覚によって具体的場面で戦術が選ばれる」などという現実は、どのていどあるだろうか? ブルデューのモデルの「不徹底さ」も、まさにこのような疑念に対応していると思われる。モデルの精緻化によって現実から離れるということを忌避したのだと(ちなみに、モデル化が悪いと批判しているのではなく、モデルの精緻化で個別事情が考慮できなくなるのは避けるべきという一般的なことを言っているに過ぎません。あしからず)。

 ちなみに、上のような見解には、モデルは現実をそのまま反映するのではなく、あくまで理念型なのであるという反論もできると思う。

 それに関しては、ブルデューの立場を代弁して言えば、(と、ここまでブルデューの肩を持つこともないのだが)、次のような定式を用いることもできる。

 「時刻表によれば8:30に到着する列車が、毎日5分遅れて8:35に到着する」という事象から、電車が5分遅れるという「規則がある」と結論づけるのは、誤りである

 と(ちなみに、上のたとえは、私が留学していた時の指導教官が用いていた定式であり、私自身のものではない)。

 話が長くなり、中心も見えなくなってしまったが……。ここで私が考えたのは、すべての家庭が必ずしも教育(あるいは学力)に関心を払っているわけではないし、また、すべての人々が競争に動機づけられているわけでもない。「教育への関心」や「競争への動機付け」が、あたかも「規則のように」社会に遍在しているかのように考えることは、やはり誤りなのではないかと、思われる。

 他方で、「公正な競争が可能である」と信じることのできる社会であるというのは、それはそれで幸せなことなのかもしれない、と思うこともある。


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