a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

藤田嗣治、オリエンタリズムetc.

2006年04月03日 | 理論
 東京国立近代美術館で藤田嗣治展が開催されているらしい。先日朝日新聞の文化欄でこれ企画が紹介されていた。また、今週末のテレビで、藤田にまつわる二つの番組が放送されていた。

 藤田の作品については、私は別段思い入れはない(実際には、思い入れをもてるほどには知らないということだが)。ただし、二つの番組で紹介されていた彼の人生について、それと関連づけて考えた彼の作品には、いくらか考えさせられるところがあった。朝日新聞での記事だったと思うが、彼の日本の和紙の白を再現した「乳白色」を、「あちらで求められる東洋趣味に自らをあわせた」のだといった旨のことが書かれていた。たしかに、藤田は柔道が仏に紹介されたときも、柔道着を着て自ら実演をしたようだ。西欧社会が抱くジャポニズム趣味に、自ら擦り寄っていくというそうしたメンタリティー故のものなのだろうか?

 話は違うが、クリステヴァには「オリエンタリズム」的なところがあり、『中国の女たち』の彼女の文章には、そうした面がにじみ出ている。ただ……、仏に留学して私が感じたのは、西欧的価値観に同化せねばならなかった彼女が、そうした側面(仏社会が持つ『オリエンタリズム』の側面)にも同調せねばならなかったであろうことである。いわば「移民」である彼女が(といっても、一般にイメージされる移民とは別の生活層であろうが)、西欧近代の総本山たる仏社会に同化するためには、よほどの努力を要したであろうが、その努力の結果として身につけた「オリエンタリズム」を、私は非難する気になれなかった。

 これも別の話だが、以前話をした哲学専攻で西田を研究している私の友人のイザベル、彼女はある仏のジャポノロジの研究会で、西田が徹頭徹尾「東洋趣味」の文脈で解釈され議論が進められていることに腹を立てて、もっと哲学固有の文脈で西田を考えるべきであると憤慨しつつ主張したらしい。仏社会には、そうしたエギゾチスムが未だにあるようだ。

 そこで思い出したのは、岡山大の中尾先生がロンドンで見たマダムバタフライについて、「堪え忍ぶ日本女性」という表象を押しつけられている点が非常に不満だった、とメール言っていたことがあった。大中一彌さんは、同じメールに対して、そうしたオリエンタリズムの側面と芸術的に素晴らしいという面は別のことなのだという旨のことを返信で言ったらしい。今考えるに、芸術的であるからこそそうした表象が押しつけられることに不満を感じたのではないかと思う。

 東洋的あるいは日本的なものを持つ人間が、自らをどのように西欧社会に対して提示してゆくのか? この問題は、非常に難しい側面を含んでいるように思われる。この話、続きがあるのだが、それは後ほど。


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