a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

学説研究について:理論研究の下準備としての

2005年06月05日 | 理論
 私は、自称、学説と理論の研究を生業としているのですが、「学説研究の意義とは?」という質問を時々されることがあります。学説研究と呼ばれるものの中には、重箱の隅をつつくような細かな研究があり、そうした研究には、その対象に精通している人々の間では意義があるものの、その領域を少しでも出てしまうとたちまち意義がわからなくなるということがままあります。まあ、こうした事態は、専門化が進んだ領域においては、どこにでもあるものなので、、学説研究に限ったことではないのですが。

 しかし学説史研究や、あるいはもう少し広くとって思想史研究でも、実際の社会にかなり直接的に役立つ研究を構想することは、難しいことではありません。こうしたことは、例えば、自由・平等・博愛という仏革命のスローガンをとってみてもそれは明らかです。

 この自由・平等・博愛という言葉は、市民社会が達成すべき目標として革命の中で旗印にされたスローガンではありますが、この歴史を見ると、なかなか面白いことがわかります。というのも、当初このスローガンには、自由と平等のみで、博愛は含まれていませんでした。おそらく歴史的には、仏革命を主に担ったブルジョアと労働者がその敵である身分制(貴族階級)に突きつけた要求が、異なった仕方で現れたのではないかと思われます(この点はちょっと確認していませんが(;^_^A アセアセ…)。

 しかしこの自由と平等という二つの原理は、互いに相容れないところがありました。つまり、自由を追求すれば市民の間の不平等を容認することになり、逆に平等を押し進めるなら、市民の自由な活動は排除されてしまいます。そこで三つ目のスローガンとして選ばれたのが、二つの原理を結ぶ、博愛という原理です。

 つまり、自由・平等・博愛という、現在でも仏社会の基本とされている三つの原理は、その当初においてさえ等価なものではなく、むしろ微妙なバランスの中で採択されたものなのです。おそらくこの三つの原理は現代社会においても重要な役割を担っているでしょうが、しかし、この三つの間のバランスは、なんら確固たるものではないわけです。こうした見解は、現代の民主主義社会を考える上でも非常に役立つものであるように、私には思われます。

 あるいは、もう一つ、デュルケムについても考えてみましょう。これは現在私が取り組もうとしている主題の一つなのですが、デュルケムの社会分業論は、現在で言うところの多文化主義を主張していたように私には思われます。社会分業というconceptionは、中間集団を排除する仏の共和主義的伝統の中では、むしろ異端的なものです。

 中間集団を認めないフランス社会においては、イスラム教徒が孤立化し、それによって原理主義化するという傾向がありますが、こうした問題を解決するために、仏の共和主義そのものの中で多文化主義を考察したデュルケムの理論を持ち出すのは、米の多文化主義の理論を仏社会の外部からそのまま仏社会に導入するということよりは、よほど接合が容易であるように私には思われます。

 理論というものは、それ自体、限定的な実践によって生まれたにすぎず、それ故にあちらの理論とこちらの理論をそう簡単に接合することは、それほど簡単なことではありません。ある理論は、それが作られた社会の中に足場があり、そして別の理論はそれが作られた別の社会の中に足場があるわけです。そしてそうした異質な理論を接合させるためには、それぞれの理論が持っている「足場」について、しっかりとした考察をしなければならないでしょう。学説研究が「役立つ」とすれば、まさにこの点においてなのです。

 そうした意味において、学説研究は、理論研究の下準備と言うことが出来るでしょう。

 ただ、下準備ばかりをしていて、実際の作業には入っていない、というのが、私自身に対して言えることなのですが(;^_^A アセアセ…。

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