犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

生の防御本能

2008-03-15 17:39:50 | 実存・心理・宗教
近代法治国家における法廷は、自らの罪を反省する場ではなく、自らの罪を裁く者に対して戦いを挑む場である。ゆえに被告人は、憲法上も認められた正しい行為の一環として、法廷で必死に弁解をする。否認をしているならば無罪放免を求めるし、罪を認めているならば反省の情を表しつつ軽い刑を嘆願する。このような行動は、法律的なフィルターをかけて見れば、立派な人権の行使である。しかし、その動機というものを深く掘り下げてみるならば、そこには生の防御本能がある。これも実存の表れである。

ニーチェ哲学によれば、キリスト教的な禁欲主義のルサンチマンは、ニヒリズムからの逃避である。すなわち、虚無や死を恐れるがゆえの思考停止であり、根底には自己の生存への欲求を含むとされる。人間はいかなる状態であれ、生きている限り、生の実存的不安と死の実存的不安から逃れることができない。ましてや裁判を受けるという極限的な状態であれば、自己の生存への欲求がもっとも先鋭的な形で表れるのは当然である。法治国家において法律的なフィルターをかけることは当然としても、その下にある生存への欲求が変わるはずもない。

キリスト教的なルサンチマンは、単なる人間が頭で作り出した概念を、物理的に存在するもののように信じさせる。この代表格が人権である。これによって、被告人の生の防御本能は、崇高な人権の行使にすり替えることが可能になる。個人的な本能の存在を隠し、当然の権利として堂々と主張することができる。傍聴席で被害者が涙をこらえていようと、にらんでいようと、崇高な人権の行使にとっては何ら障害ではない。厳罰化に反対するというベクトルも同様である。早く外に出たいという生存への欲求を、国家権力による市民の人身の自由への介入の是非の問題にすり替えることが可能になる。

中世の人民裁判の苦い経験を経た人類は、法の支配と人権思想を確立し、自由主義に立脚する近代の裁判制度を確立した。これによって裁判の法廷は、自己の生存への欲求を最大限に発現する場となると同時に、その欲求が隠される場ともなった。法廷とは、検察官の起訴した罪があるかないかを決める場であって、被告人が反省をする場ではない。被告人が裁判の当事者として戦う場であって、罪と向き合う場ではない。これが上手く被告人の生の防御本能と合致し、しかもそれを隠すような構造になっている。被害者の二次的被害の1つが、このような法廷のやりとりを一方的・受動的に見せ付けられることである。