犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土浦市連続殺傷事件

2008-03-28 10:15:06 | 実存・心理・宗教
土浦市の連続殺傷事件では、指名手配中の金川真大容疑者を取り逃がしたことについて、茨城県警に批判が集まっている。県警は、JR常磐線荒川沖駅改札の内側と通路側に私服警官を配置し、駅構外を含め計8人を配置していたものの、変装した金川容疑者を発見できず、二次犯罪を未然に防ぐことができなかった。犯行を防げたのに防げなかったという一連の流れが見えるだけに、非常にもどかしい。細かいところでは意見の相違があるとはいえ、県警に対する批判が起きるのは当たり前のことであり、人間としてごく当然の感覚である。

このような警察への批判は、従来よく見られたパターンの批判とは明らかに異なっている。まず、典型的な警察権力の濫用への危惧を表すものではない。また、内部の汚職や不祥事に対して職務倫理の向上を求めるものでもない。端的に、二次的犯罪の防止のため、より適切な捜査をすべきだったとの批判である。すなわち、もっと捜査員の人数を増やすべきであった、制服姿の捜査員を配置すべきだったとの批判であり、警察権力の積極的な発動を求めるものである。これは、人命尊重を第一に考えるならば、ごく当然の要求である。人命が失われてからでは、取り返しがつかないからである。

犯人が変装している状況では、手配写真と似ている人物がいれば積極的に職務質問をする必要がある。また、凶器を所持している疑いが濃厚であれば、所持品検査も積極的にしなければならない。ここでは、犯人だけをピンポイントで捕らえることは無理である以上、無関係な人にも広く影響が及ぶことにもなる。単に背格好や顔が似ているというだけで、何の関係もない人のプライバシーを詮索し、職務質問と所持品検査に協力させるということである。それにもかかわらず、国民が県警に対して捜査の不備を感じ、より積極的な捜査をすべきであったとの感情を抱くならば、それは人間の生命の重さが示すものに他ならない。

立憲主義においては、警察官の従うべき基準は明確である。憲法は国家権力への歯止めの役割を果たすものであり、その具体化である刑事訴訟法を見てみれば、警察権力が市民のプライバシーを侵害することの危険性に主眼が置かれていることが一目瞭然である。これは、警察比例の原則、捜査比例の原則などと言われるものである。従って、人権論としては、「二次犯罪の防止」が声高に叫ばれることは好ましくない。見込み捜査が誤認逮捕を生み、冤罪を生むことの危険性を何よりも重視するからである。それでは、今回のように実際に二次犯罪が起きてしまったとき、伝統的な人権論はどのように考えるのか。筋を通すならば、大声では言えないにせよ、「デュープロセスを守るためには犠牲者の1人や2人増えても大した問題ではない」と考えるしかないだろう。

刑事訴訟法の捜査に関する重要判例には、常識的に見て非常もどかしいものが多い。米子銀行強盗事件と言われる事件では、どう見ても銀行強盗の2人組を路上に発見し、猟銃とナイフを所持していることが明らかであったが、警察官がバッグのチャックを開けた行為は違法で無罪であるとして最高裁まで長々と争われた。ここでは、凶器による二次犯罪の防止という視点は採られていない。また、飲酒運転の自動車の発進を止めるため、警察官が車の窓から手を入れてエンジンキーを回したという事件でも、捜査は違法で無罪だとして最高裁まで長々と争われた。ここでも、飲酒運転による死亡事故の発生の危険性という視点は全く採られていない。刑事訴訟法の原則では、何よりもデュープロセスが重視され、二次犯罪の発生はある程度やむを得ないものとされているからである。

消極的な捜査によれば二次犯罪は防止しにくく、積極的な捜査によれば二次犯罪は防止しやすい。ここで、「起こらなかった犯罪」「防止できた犯罪」はなかなか見えにくい以上、積極的な職務質問や所持品検査をすれば、伝統的な人権論からは警察権力の濫用に対して危惧が表明される。しかしながら、犯罪被害者の人権というパラダイムの転換を経てみるならば、何よりも新たな被害者を発生させないことにも積極的な価値が見出されなければならない。従来の人権論は、「殺された生命」に対してあまりにも冷たかったと同時に、「殺されなかった生命」の存在を見落としていたところがある。今回も人権派の方々は、人々が事件の悲惨さを忘れるまで沈黙を保つのだろうか。

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