犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第12章~第14章

2008-03-05 20:54:41 | 読書感想文
2つの命題がある。

① 「犯罪とは人権侵害である」
② 「刑罰とは人権侵害である」

世間の一般的な考え方からすれば、①はごく当然のことであって、逆に②には違和感がある。何の罪もない人が、他人の欲望の充足のために理不尽に犠牲になってよいわけがない。他方、悪いことをしたのであれば、刑罰を受けて償うべきことも当然である。我々の日常生活は、このような常識の信頼の上に構築されている。ところが、人権論の考え方においては全く逆であり、①は正しくないが、②は正しいものとされる。人権とは、国家権力から市民を守るための概念だからである。

このような一般人と専門家との間の常識の逆転が、賠償するだけの資力のない加害者の逃げ得を許容してきた。そして、被害者の泣き寝入りを生んできた。加害者が法廷で「一生賭けて償います」と言いつつ、被害者に対して1円も支払わなければ、これは一般には「ウソつき」である。ところが、人権論の下ではこれが積極的に許される。加害者は、国家権力による最大の人権侵害である刑罰の危険に直面しているのだから、とことん自己中心になることが許される。当然心の底から反省する義務などなく、その義務を強制するなど人権侵害であり、反省の演技をすることによって刑を軽くしてもらう権利がある。人権論からは、どうしてもこのような結論が演繹的に導かれざるを得ない。

刑罰が人権侵害であり、それを最小限に抑えるべきであるというならば、刑罰は応報刑でなく、目的刑でなければならない。そして、応報刑は「償う」ものであるが、目的刑は「務める」ものである。現に、「刑期を務め終えた」という表現は、この感覚を如実に表している。務めるのはあくまでも自分のためであって、そこでは被害者の存在など眼中になくて構わない。すなわち、自分の人生の時間を被害者のために費やしたのではない。目的刑の思想では、このような考え方が積極的に許容されることになる。これでは、加害者が「なぜ3年間も刑務所で務め上げたのに、その上損害賠償までしなければならないんだ。1円だって払う筋合いはない」と考えることも当然である。最初の大前提がずれているからである。

加害者にいつまでも賠償の負担を課すのは社会復帰への障害となるというならば、その分国家的な補償を完璧にしなければシステムとしては不完全である。誰しも犯罪被害者になる可能性があるのだから、生命保険、自動車保険、地震保険、火災保険と同じような制度が構築されなければならない。ところが、人権論はこの場面においても一般人と専門家との間の常識を逆転させる。人権論からは国家刑罰権の設定とその範囲が中心的な問題とされるため、犯罪被害者は必然的に無視されてきた。ここでの命題は以下の2つであり、人権論において①は重要であるが、②は大して重要ではない。

① 「誰しも犯罪者になる可能性がある」
② 「誰しも犯罪被害者になる可能性がある」