犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『ぐれる!』

2008-03-27 01:40:22 | 読書感想文
3章 「さまざまなぐれ方」
二 「男のぐれ方」 より

近代社会は、男たちをさらに過酷な状況に追いつめている。結論から言いますと、男の子すべては自分の生まれながらの力だけをもって、フェアに戦わなければならないのです。

暴力的事件を起こすのは圧倒的に男の子なのです。ニュースを聞いても、むしゃくしゃしていたから、だれでもいいから通行人を刃物で刺したとか、親をバットで殴り殺したとか、電車の中で注意されたからそいつを息の絶えるまで足蹴にした、という女の子はほとんどいない。これはもうだれが何と言おうと、男の子と女の子の生物学的違いにもとづいているとしか言いようがない。

男の子の性衝動は即物的・爆発的なもので、そのことが容易に社会的規制を打ち破って犯罪を呼び起こす。しかも、後期近代社会は暴力が大嫌いと来ている。この社会の残酷さは、もともと暴力を不発弾のようにかかえている男の子が「暴力禁止」という劣悪な条件のもとに生きなければならないことです。

こうして、じつは近代社会とは知的なものを過度に重視する偏った社会でありながら、あらゆる男の子はそこでフェアに戦わなければならないと教えられる。しかし個人の生得の能力や生まれつきの環境は、ため息が出るほど(鳥肌が立つほど)不平等ですから、ここに各人間の不平等がさらに拡大される。勝ち組にとってはなかなか居心地のいい社会であり、負け組にとっては徹底的に住みにくい社会です。

(p.88~92より)


このようなことは、法律の本にはまず書いていない。そして、裁判官を初めとする法律家も、このようなものの考え方はしない。刑事訴訟法は憲法31条から40条の具体化であって、近代社会における裁判は、何よりも憲法の大原則に則って行われなければならないからである。そして、日本国憲法には、個人の尊厳(13条)、法の下の平等(14条)、男女の平等(24条)が規定されている。これは、アメリカ独立宣言からフランス人権宣言に取り入れられ、各国の憲法の柱となった思想である。すなわち、人はみな生まれながらに等しく、侵されることのない権利を持っており、一人一人がかけがえのない個人として大切にされなければならない。犯罪を扱う刑事裁判のあり方は、ここから演繹的に定められなければならない。

このような動かぬ憲法論からすれば、近代社会の現実を茶化して暴こうとする哲学者・中島氏の視点は、とても受け入れられるものではない。しかし、哲学論と法学論のどちらが現実を上手く説明しているか、現実問題として当たっているかは別の問題である。むしゃくしゃしていたから火をつけた、人を殺したかったから誰でもいいから通行人を刃物で刺した、このような事件が起きるたびに、近代刑事裁判はお決まりの構図にはまる。すなわち、「被告人は犯行当時心神耗弱であり、善悪を判断する能力がなく、責任能力がない」。このような強固なパラダイムにはまってしまえば、人間はその枠組みでしか物事が捉えられなくなる。この当為概念がひずみを生じ、現実との軋轢をもたらす。これも学問としての法律学が、哲学への優位性を確保したことに伴うものである。

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