犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

城山三郎著 『指揮官たちの特攻』

2008-03-19 02:19:35 | 読書感想文
「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし、みなは長い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、必ず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」(大西瀧治郎中将の訓示より、p.52)


特攻隊員は、なぜ逃げ出さなかったのか。確実に死ぬことを考えれば、捕らえられて殺される危険があろうとも、どんなことをしてでも逃げるのが普通ではないか。このような子どものような疑問は、非常に大切である。近年の議論はあまりに成熟しすぎて、このような単純な疑問の出る幕がない。歴史認識の問題はアジアの各国をも巻き込み、靖国神社や日の丸・君が代の問題は伝統的な左右のイデオロギーの問題と切り離せなくなっている。しかしながら、特攻という事実をありのままに捉えるならば、そこには後世における我々の解釈を容れる余地がない。

「特攻隊においては人の命が非常に軽く扱われていた」。この命題は、人間の生命の重さを示そうとしているが、図らずも特攻隊員の死は犬死にであるとの見解を示してしまう。「国家のために命を捧げた人々に敬意を示す」。この命題も、特攻隊員の生命の重さを示そうとしているが、死に意味を与えることにより、なぜか戦争を賛美する意味を帯びてしまう。これは生死の弁証法の必然であり、メビウスの輪のようなものである。特攻隊に敬意を表すれば平和を愛することになり、平和を愛すれば戦争の悲惨さを唱えることになるが、戦争の悲惨さを唱えれば特攻の愚かさを指摘することになる。いつの間にか話が逆になっている。靖国問題について答えが出ないのも当然である。左右両陣営は対立しておらず、同じことを言っているからである。

後世に歴史を語り伝えたいという強い動機は、それゆえに創作が混入する。歴史から何かを学びたいという強い意欲は、それゆえに解釈が混入する。そもそも他者に対して語ることができないものは、後世に語り伝えることもできない。風化させてはいけない、語り継がなければならないという議論は、容易に政治論に転化し、結果的に風化を促進する。政治家の靖国神社への公式参拝は是か否か、このような政治的な二者択一の問題を延々と論じ続けることは、特攻というありのままの事実を語り伝えることを阻害する。「二度と戦争を起こしてはならないという決意で参拝した」と言う人に対して、「あの場所は軍国主義の象徴であるからその決意は嘘である」との批判が成立してしまうこと、これが弁証法の必然を示している。

被害者の遺族が死刑廃止を訴える行為

2008-03-18 18:24:55 | 国家・政治・刑罰
近代社会は個人主義を標榜し、日本国憲法も個人の尊厳を明記している。しかし、なかなか社会問題の一件落着、すべての問題の理想的解決という状況は訪れない。それはなぜか。法律家に聞いてみれば、保守革新が入り乱れて様々な答えが返ってくる。これに対して、哲学者に聞いてみれば、大体は同じ答えが返ってくる。それは、すべての人間はいずれ死ぬということである。どんなに個人主義を建前として掲げても、人間に死の恐怖がある限り、人間は社会を作って群れる。

自分も他人も、身近な人も地球の裏側にいる人間も、憎き犯人も政治家も、いずれは死ぬ時がくることは確実である。この確信が、人間の自覚的な同胞意識の基盤をなしている。政治的な文脈で見てみれば、個人主義の主張と人間の生死との間には、直接の関係がない。しかし、すべてを弁証法の動きで見てみれば、両者はまったく同根である。人間は死ぬ時には1人である。自分の代わりに他人は死んでくれない。しかも、すべての人間はそれぞれバラバラに死ぬ。個人主義の自由とは、問い詰めれば恐ろしい地点に至るものである。そして、自分がいつか死ぬべき存在であることを心のどこかで感じている人間は、この共通認識の反転として結束感情を持つ。

愛する人を犯罪で亡くすという極限の経験をした人間は、この不安に正面から立ち向かい、自分なりの解答を出さざるを得ない立場に追い込まれる。ここでは、いずれ死ぬべき人間である自分は、まだ死んでいない以上は、生きて共にある間は何かをしたい、何かをしなければならないという必要性の感覚に捕らわれる。それは、なぜ自分だけがこのような目に遭わなければならないのかという不条理性に対する解答への模索である。そして、弁証法的に生死を捕らえるならば、殺人者だけがこの世に生きていることは、それ自体が矛盾である。遺族が犯人に死刑を求めることは、ごく当然の論理的帰結である。

これに対して、被害者遺族が死刑廃止を訴えることもあるが、論理的帰結としては不自然である。そもそも人間の自覚的な同胞意識の基盤とは、いずれ死ぬべき運命にある人間の存在形式から生じるものである。それは、人間は生の側からしか弁証法をスタートできず、死の側から弁証法をスタートさせることはできないことに基づくものである。そうであれば、殺人事件をきっかけとして犯人を同胞意識に取り込むことは、共同存在の形式の無意味な拡張である。これは、いずれ来るべき自らの死を避けようとする行為であり、避けがたい死を直視していないことの反動でもある。被害者の遺族が死刑廃止を訴える行為は、確かに尊敬に値しないことはないが、論理的に不自然なものを万人に普遍化することはできない。

本田桂子著 『その死に方は、迷惑です』

2008-03-16 01:20:00 | 読書感想文
エピローグより

「私は本書の出版にあたって、1つの夢を抱いている。それは、少しでも遺言書の効用を世の中の人にわかってもらい、いずれは生命保険なみの利用率とまではいかなくても、生命保険に入るのと同じぐらいの気軽さで遺言書を作成する人が増えることだ。そうすれば相続手続で悩む遺族が減り、故人の希望がスムースに実現されるようになり、世の中が明るくなるのではないか。いつの日か、老いも若きも、年齢や性別にかかわらず遺言書をつくることが当たり前になり、遺産争いが過去の遺物となることを私は夢見ている」(p.252より抜粋)


民主主義の法治国家が「人間の生死」というものをどのように捉えているか、そしてどのように捉えざるを得ないかが非常によくわかる本である。「生老病死」をめぐる諸々の問題は、本来は哲学的な視点なくしては語れない。しかしながら、法治国家においては、これを客観的に互換性のあるものとして捉えなければ話が進まない。そして、哲学的な視点はかえって邪魔になる。こうして法治国家は、遺言書の書式に関する規定を精密に整備してきた。死んだ後のことは知らん、人知れず静かに人生から退場したい、現代社会ではこのような死に方は遺族に必然的に迷惑をかける仕組みになっている。

本田氏は誰もが遺言書を書く社会が到来することを夢見ているようだが、そのような日はまず来ない。遺言を書いたことがわかれば、財産をもらえる人ともらえない人が判明し、かえって息子や娘の間でトラブルが発生するというようなマイナス面が指摘されているが、これはごく表面的な問題である。根本的な問題は、人間は他人の死はわかっても、自分の死は絶対にわからないという事実である。どんなに立派な遺言を書いても、それがしっかりと実行されているか、人間はそれを見ることが絶対にできない。生きているならば遺言が発効していないのだし、遺言が発効しているならば生きていないからである。これが遺言の性質である。従って、人間はどう頑張っても安心して死ぬことなどできない。

自分の死後に遺言書が引き出しにしまったまま忘れられていないか、仲の悪かった親戚に捨てられていないか、訂正印の押し忘れはないか、誤字脱字はないか。このような悩みは贅沢である。死ぬのが怖い、人は死んだらどうなるのかといった根源的恐怖に比べれば、遺言書の心配など大した悩みではないからである。やはり「生老病死」の問題は、法律論は法律論として、そのごく一部しか語れない。確かに、法律家が遺言書の有用性をPRし、醜い相続争い減らしてくれるのは好ましい。しかしながら、法律家がそれと同じ論理で、犯罪被害者遺族の支援の問題を扱われるのは非常に迷惑である。いつまでも死を受け入れられない遺族の前で、いつ相続の話を切り出そうか、そのタイミングを図っているようでは困る。そのような姿勢では、遺族の話など聞けるはずもないからである。

生の防御本能

2008-03-15 17:39:50 | 実存・心理・宗教
近代法治国家における法廷は、自らの罪を反省する場ではなく、自らの罪を裁く者に対して戦いを挑む場である。ゆえに被告人は、憲法上も認められた正しい行為の一環として、法廷で必死に弁解をする。否認をしているならば無罪放免を求めるし、罪を認めているならば反省の情を表しつつ軽い刑を嘆願する。このような行動は、法律的なフィルターをかけて見れば、立派な人権の行使である。しかし、その動機というものを深く掘り下げてみるならば、そこには生の防御本能がある。これも実存の表れである。

ニーチェ哲学によれば、キリスト教的な禁欲主義のルサンチマンは、ニヒリズムからの逃避である。すなわち、虚無や死を恐れるがゆえの思考停止であり、根底には自己の生存への欲求を含むとされる。人間はいかなる状態であれ、生きている限り、生の実存的不安と死の実存的不安から逃れることができない。ましてや裁判を受けるという極限的な状態であれば、自己の生存への欲求がもっとも先鋭的な形で表れるのは当然である。法治国家において法律的なフィルターをかけることは当然としても、その下にある生存への欲求が変わるはずもない。

キリスト教的なルサンチマンは、単なる人間が頭で作り出した概念を、物理的に存在するもののように信じさせる。この代表格が人権である。これによって、被告人の生の防御本能は、崇高な人権の行使にすり替えることが可能になる。個人的な本能の存在を隠し、当然の権利として堂々と主張することができる。傍聴席で被害者が涙をこらえていようと、にらんでいようと、崇高な人権の行使にとっては何ら障害ではない。厳罰化に反対するというベクトルも同様である。早く外に出たいという生存への欲求を、国家権力による市民の人身の自由への介入の是非の問題にすり替えることが可能になる。

中世の人民裁判の苦い経験を経た人類は、法の支配と人権思想を確立し、自由主義に立脚する近代の裁判制度を確立した。これによって裁判の法廷は、自己の生存への欲求を最大限に発現する場となると同時に、その欲求が隠される場ともなった。法廷とは、検察官の起訴した罪があるかないかを決める場であって、被告人が反省をする場ではない。被告人が裁判の当事者として戦う場であって、罪と向き合う場ではない。これが上手く被告人の生の防御本能と合致し、しかもそれを隠すような構造になっている。被害者の二次的被害の1つが、このような法廷のやりとりを一方的・受動的に見せ付けられることである。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第15章

2008-03-13 18:46:07 | 読書感想文
第15章 いじめは「犯罪」である

いじめ問題で何がもどかしいかと言えば、生徒が自殺したときに、学校側が「いじめがあったという事実は確認できていない」、あるいは「いじめはあったが自殺との因果関係は確認できていない」と述べることである。ここには近代社会の負の側面が端的に表れている。この情報化社会において、昔の哲学青年のように人生に悩んで自殺をする生徒などまずいない。学校に通う少年であれば、事業に失敗して多額の借金を抱えるわけでもなく、病気を苦にするわけでもなく、常識的にいじめ以外の原因は考えられない。にもかかわらず、責任の所在を明らかにしなければならない近代社会は、この欺瞞的な弁解を許容してしまう。とりあえず確認できていない責任は自ら進んで負わない、これが私的自治の原則・契約自由の原則の裏面としての過失責任の原則が支配する近代社会のルールである。

近代社会では、証拠がなければ、事実は存在しなかったことにされてしまう。こうなってくると、法的な理論としては、次の行為を奨励するのが本筋となる。すなわち、「自殺しようと思っているそこのあなた。いつ誰にどのようないじめを受けたか、そしていじめ以外に自殺の動機がないことを遺書に詳しく書いてから自殺しなさい。遺書の存在がもみ消される恐れがあるため、数部コピーしておき、宛先を変えておくと安全である」。これは悪い冗談ではない。金を返して欲しければ、しっかりと借用書を取れ。離婚して慰謝料を取りたいならば、不倫現場の証拠を押さえろ。遺族に骨肉の争いを生じさせたくないならば、しっかりと遺言書を書いておけ。法律効果から法律要件を逆算すれば、どうしてもこのような行為が奨励されてくる。現に、学校側による「いじめがあったという事実は確認できていない」との記者会見が広く報道される世の中では、自殺しようとする生徒は、効果的な遺書の書き方まで知らず知らずのうちに学習してしまう。

遺書において自分をいじめた者の名前を書く。これは、無駄死にを防ぐための最大にして唯一の手段であり、自己の死に意味を与える行為である。死をもって何かに抗議する、これは古今東西において枚挙に暇がない。自爆テロや殉死にも通じる。すなわち、「自分の死を無駄にしないで、日本社会はいじめ根絶の努力をしてほしい」。これによって、自分をいじめた者に対する報復も果たせる。命が重いゆえに命を捨てたくなる。死が誘惑的なものとして希求され、恐怖の対象ではなくなり、それを実行してしまう。ここでは、自殺した生徒の内面的成熟は、自らの保身に汲々としている大人よりも、はるかに上を行っている。大人達は人生の先輩として、生徒を子ども扱いした上で、「1つしかない生命の大切さ」についてお説教をする。しかしながら、この文法に説得力を持たせたいのであれば、同時に「いじめがあったという事実は確認できていない」との文法を廃棄しなければならない。

数年前、いじめられている生徒から文部科学大臣に対して次々と匿名の自殺予告の手紙が送られ、体育祭を中止にしたり、期末テストを延期したりする出来事があった。ここで大人達が、匿名の生徒の脅しとも取れる手法に屈してしまったことが、近代社会の負の側面を端的に表している。もし仮に体育祭や期末テストを強行し、生徒が本当に遺書を残して自殺してしまったら、責任問題はどうなるのか。これを想像すると、やはり責任の所在を明らかにしなければならない近代社会は、何かがおかしいと思いながらも、保身のための安全策に走らざるを得ない。そして、ご丁寧にも「子どもの命は何よりも尊い」という取って付けたような理屈を持ち出す。しかしながら、子どもの命は何よりも尊いというならば、子どもが遺書を書かずに自殺した場合、学校側が「いじめがあったという事実は確認できていない」述べることは背理である。人間の倫理は、本来であれば、「遺書を書く余裕もないほど苦しんでいたのだろう」との方向性を指し示すはずである。

児童買春・児童ポルノ禁止法の改正

2008-03-12 13:57:44 | 国家・政治・刑罰
自民・公明両党は、議員立法により、児童買春・児童ポルノ禁止法を改正する方針を固めた。これは、児童ポルノの画像などの氾濫に歯止めをかけるための措置であり、販売目的でなく「単純所持」するだけでも禁じることとし、新たに罰則の対象とするものである。この背景には、インターネット等を通じて児童ポルノ事件の被害者が急増していることや、国際的に日本の対応が出遅れている現状がある。日本の児童買春・児童ポルノ禁止法は平成11年に成立しているが、単純所持については禁止規定が設けられていなかった。これは、「プライバシー権の侵害につながる」などの様々な反対意見があり、見送られていたものである。

今回も、例によって人権論からの反対意見がある。精神的自由権に対する規制が問題となると、議論は必ずこのパラダイムに収まり、全く動きが取れなくなる。この原理主義的な思考パターンがもたらした弊害は非常に大きい。これは、犯罪被害者が直面している問題一般と全く同じ構造である。原理主義的な人権論からすれば、単純所持を規制する法律はあまりに広汎に過ぎ、日本の法制度上も類を見ないほど過激で恐ろしいものであり、戦前に逆戻りする危険があるなどと主張されることになる。ここで「人権」の文脈を奪われてしまえば、何も知らずに児童ポルノに出演させられた子どもの人権を唱えても、それは主流の人権論にはなり得ない。原理主義的な人権論は、どうしても公権力による刑罰からの自由を問題とするからである。

近代国家の憲法学は、大前提としてこのようなパラダイムに立った上で、さらに細かい話を展開してゆくため、根本的なところがどうにも抜けてしまう。我が国の憲法学の通説からすると、プライバシー権・自己決定権(13条)、思想良心の自由(19条)、表現の自由(21条)は精神的自由権であるから、厳格な基準によらなければならない。そして「児童ポルノである」という表現内容に着目する規制は、時・場所・方法に関する内容中立規制よりも厳格に行わなければならない。しかるに、LRAの基準に照らし合わせて考えてみれば、売り手側の罰則強化や、プロバイダとの協力によるネット規制の強化などの方法が考えられ、およそ所持自体を禁止するのは明らかに行きすぎであって、違憲の疑いがある。憲法論から演繹的に考えると、どうしてもこのような議論に突入してしまう。

「規範定立→あてはめ」という演繹法の最大の弊害は、抽象論を現実の人間に強制する点である。法改正に反対する著名な学者や専門家は、何も自分が児童ポルノに興味があって、自分の秘かな楽しみが奪われることを怒っているわけではない。あくまでも「自分はロリコンでも変態でもない」との安全地帯に立った上で、高尚な議論を精緻に展開している。これは、「自分は人殺しではない」「自分は放火魔ではない」との安全地帯に立った弁護人による刑事弁護と同じ構造である。この安全地帯にいる限り、どんな恥ずかしい話からも恥の要素は払拭され、話はいつの間にか高尚になる。そして抽象論において正義が実現しているならば、あとはそれが実現されなければならないということになり、現実の捉え方も一元的になる。

そもそも、わいせつ物に関する罪は、公権力に対する表現の自由の問題としてのみ一元的に捉えられてきた。日本の憲法学においても、「刑法175条(わいせつ図画販売目的所持罪)が憲法21条(表現の自由)に反するか」といった視点はあっても、「女性の性の商品化は女性の人権を侵害するか」という視点は皆無である。原理主義的な人権論は、公権力による刑罰からの自由を問題とするからである。そして、わいせつ表現をどこまで許容するかは民主主義の成熟度を測る試金石であるといった言説が尤もらしく喧伝されてきた。このような「人権を見て人間を見ず」の理論を唱える学界の権威は、自らはエロ本やビデオを奥さんに見つからないようにどこに隠しているのかは語ろうとしない。そして、電車内で痴漢をした場合には、一般の会社員とは比較にならないほど大きく報道される。

幼い子どもが何も知らずに大人の手によって児童ポルノに出演させられ、大人になって気が付いた時には、その画像が地球の裏側まで回っていた。この恐るべき現実からは一生逃れられないどころか、死後も逃れられない。演繹的な人権論による一元的な捉え方は、この最初の基本を故意に見落とすため、その後がすべて原理主義的となり、他者との議論が成立しなくなる。そんなに児童ポルノが好きならば、逮捕されるのを覚悟で持てばいい。逮捕されるのが嫌ならば、児童ポルノを持たなければいい。実際のところ、話は極めて単純である。難しい話をしたいならば、机上の空論でなく、地に足を着けなければならない。自らは変態ではないとの安全地帯に逃げ込み、抽象的な人間の人権を論じることによって、具体的な目の前の人間の人権侵害が見えなくなる。これも、犯罪被害者が直面している問題一般と全く同じ構造である。

死者の独我論的観点への共感

2008-03-11 01:31:19 | 言語・論理・構造
独我論的観点には、論理的に反論することができない。世界における一切の現象は、「この私」の知覚によってしかその実在を確認できないからである。すべての世界は、「この私」の意識を通してのみ展開されている。「この私」が死ねば、その意識は消滅するから、この世界はそのまま消滅する。死者の無念とは、この独我論的観点への共感であり、絶対的不可解の謎に対する畏怖である。いったい死ぬ直前、人間は何を考えているものなのか。人間の数だけ「この私」が存在するならば、生きている人間は、他者における死ぬ瞬間の恐怖や無念に共感することができる。死者への共感とは、文法上不能であるにもかかわらず、人間においてごく自然に欲せられる思考形式である。

近代刑事裁判制度においては、人間はこのような独我論的観点への共感などしてはならない。恣意的な人間の主観を離れて、客観的な法の支配を確立するのが近代刑事裁判制度の趣旨である。殺人は殺人であり、死者は死者であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが客観的な法制度の帰結である。こう考えてみると、法律の文法は、そもそも人間の生死を扱うことに向いていない。詐欺師や泥棒、薬物所持などを裁く場合には相応しいが、殺人罪を裁くには荷が重い。無罪の推定、刑罰の謙抑性といった原理は、すべて被害者遺族を怒らせるための嫌がらせに見えてしまうほどである。

ウィトゲンシュタインは、独我論を徹底させれば実在論に至ると述べた。これは『論理哲学論考』の断章であるが、彼の哲学の派生である法実証主義においては見事に見落とされたところである。本来であれば、独我論の反転も言語哲学を通じて初めて明らかとなるし、言語哲学も独我論の反転を通じて初めて明らかとなるはずである。独我論も実在論も、言語による作用だからである。法律学が大前提としている主観と客観という構図も、人間の個体的な発達途上において、言語の獲得なしには描くことができない。近代刑事裁判制度が過度の実証主義に陥り、専門用語の優越性によって被害者を排除したのも、この点の見落としによるところが大きい。

独我論と実在論との反転は、主観と客観の反転とは全く異なる。独我論と実在論との反転においては、客観はあり得ない。あえて言うならば、実在論とは間主観性の並立状態である。遺族による死者への共感とは、独我論と実在論との反転の作用の一環として、死者において存在していた独我論的観点への共感である。その観点は確かに過去に存在しつつ、現在では存在しないがゆえに、その解きがたい謎が苦しみをもたらす。これに対して客観的な法の支配を前提とする刑事裁判制度は、この難問をすべて底上げしている。峻厳な裁判の儀式にとって一番こわいのは、遺族による「犯人が死刑になっても娘は帰ってこない」との言葉である。国民に対する裁判の権威が、たった一言で失墜するからである。

夏目漱石著 『坊っちゃん』

2008-03-08 18:32:24 | 読書感想文
川上未映子氏の『乳と卵』のラストシーン、生卵を顔にぶつける場面を読んでいたら、なぜか『坊っちゃん』のラストシーンを思い出したので、十数年ぶりに読み返してみる。明治以来、無数の作家が文壇にも登場できず無名のままに消え、あるいは有名になっても長く続かずに消える中にあって、夏目漱石はなぜこれほど長く親しまれているのか。本人はお札の肖像画にもなり、作品は小中学校の教科書にも載り続け、『坊っちゃん』は球場や電車の名称にまでなっているのはなぜなのか。

こんな一節がある。「生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で、生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない」。「赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくっちゃ駄目だめだ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ」。

夏目漱石の作品は、すべてイギリス留学における苦渋に満ちた体験がベースになっていると言われている。彼は日本において、近代社会がもたらす陰の部分を最初に洞察した作家であった。そして、近代の個人主義がもたらす人間の孤独を洞察した。近代的な自我は、一方では正義心や独立自尊の精神として現れるが、他方ではエゴや嫉妬として人間を苦悩へと引きずり込む要因ともなる。彼の小説は、すべて近代的個人主義と日本的社会との格闘の産物であり、最後には「則天去私」の境地に達したと言われている。漱石の小説が平成の時代にまで読み継がれているのは、やはり現在にもそのまま通じるものがあるからである。近代の個人主義に基づく憲法の国民主権、平和主義、基本的人権の尊重がなかなか根付かないのは、国民の理解が足りないからではなく、国民が賢いからである。

『坊っちゃん』の最後のシーンは、坊っちゃんと山嵐が不祥事を暴くため、芸者遊び帰りの赤シャツと野だいこを取り押さえて殴る場面である。坊っちゃん達は旅館の座敷に踏み込みたいが、どこの座敷にいるかわからない。正面から面会を求めれば逃げられるし、無理に踏み込めば遮られる。仕方なく旅館の外で待って取り押さえたところ、赤シャツが「芸者を連れて泊まったという証拠がありますか」と論理的に反論したため、坊っちゃん達は業を煮やし、激しく暴行を加えた。ここでは、近代法の大原則である証拠裁判主義、適正手続の保障、デュープロセスの思想などが見事に皮肉られている。小難しい理屈などどうでもいい、俺は曲がったことや卑怯なことが大嫌いだ、この筋の通った坊っちゃんの行動が現在でも人気を集める理由である。

現代の基準に照らして見れば、赤シャツと野だいこの行為は、仮に地方公務員法違反にあたるとしても、証拠不十分として立件されない可能性が高い。その反面、坊っちゃんと山嵐の赤シャツと野だいこに対する傷害罪(刑法204条)の共謀共同正犯(刑法60条)の成立は明らかである。被害者の受傷状況および前後の状況を総合すれば、現場共謀が成立していることは明白であって、同時傷害の特例(刑法207条)を借りるまでもないからである。そして、坊っちゃん達は「俺は逃げも隠れもせん。警察に訴えたければ勝手に訴えろ」と言って待っていたが、赤シャツ達は2人を訴えることができなかった。ここには単純でありながら、人間の倫理に対する深い洞察が示されている。現在の法治国家が何となく変なのは、赤シャツの立場にある者が、現実に坊っちゃんの立場にある者を民事的に訴え、あるいは刑事的に告訴しているからである。

川上未映子著 『乳と卵』

2008-03-07 15:50:57 | 読書感想文
「あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められているって感じる。んで生まれてきたら最後、生きてご飯を食べ続けて、お金をかせいで生きていかなあかんことだけでもしんどいことです。・・・それは妊娠ということで、それはこんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるってことで、そのことを思うとなんで、と絶望的な、おおげさな気分になってしまう。ぜったいに子どもなんか生まないとあたしは思う」(p.32)

「受精して、それが女であるよって決まったときには、すでにその女の生まれてもない赤ちゃんの卵巣の中には(そのときにもう卵巣があるのがこわいし)、卵子のもと、みたいのが七百万個、もあって、このときが一番多いらしい、・・・生まれるまえの生まれるもんが、生まれるまえのなかにあって、かきむしりたい、むさくさにぶち破りたい気分になる、なんやねんなこれは」(p.71~72)

「<もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの>とびっくりしたように書いたのをぽんと見せた、続けて<ぜんぶ入ってるってことやの? イミが?>と訊くので、『まあ一応、そういう考え方も、出来るよね』と云うと、緑子はじっと文字群を見つめて考え込み、しばらくして、<じゃ、言葉のなかには、言葉で説明できひんもんは、ないの>と真剣な顔をして訊くので・・・」(p.94)


第138回芥川賞の発表以来、あまりにも多くの書評や賛否両論が飛び交っていたが、やはり実物を読む前に評論家の意見など聞きすぎないほうがいい。川上氏は高校生の時にカントを読み、池田晶子氏や永井均氏に傾倒していたという略歴だけで十分である。「第1回(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞」の受賞者として川上氏が選考されたそうだが、恐れ入りましたと言うしかない。池田氏は女性でありながら、その女性性を無視する方向で、男女の性差を超えた存在を探り続けた。川上氏は女性であるがゆえに、テーマとしては女性そのものの視点を取りながら、男女の性差を超えた存在を探っている。結局両者は、突き詰めれば同じことを言っている。ジェンダー論やフェミニズムにとっては不愉快である点も同じである。

川上氏は、ある雑誌の中で「物事は<角度>が大事」というテーマのインタビューに答えている。同氏は、「別の視点を持つことによって、物を見る角度がひとつ増える」というようなことを述べ、インタビュアーが「色々なことに興味を持ち、経験をすることによって、多角的な視点が得られるのですね」といった返答をしている。これを読んだ多くの人が、恐らく川上氏の文体だけを真似て作品を書き、芥川賞を目指すのだろう。しかしながら、川上氏が述べる多くの角度とは、あくまでも「1人称現在形のゼロ地点」を押さえていることが大前提である。人称が2人称から3人称に飛んだり、時制が過去や未来に飛んだり、はたまた前世から来世に飛んだりするのでは、川上氏の文体は生きてこない。単に一文が長くて読みにくいだけである。

江戸しぐさ

2008-03-06 21:47:34 | 言語・論理・構造
「江戸しぐさ」とは、江戸時代の商人の生活哲学のことであり、現代の世相に鑑み、江戸人の知恵を今に生かすという観点から注目され始めているものである。この真髄とも言える仕草に、「うかつあやまり」という行動がある。例えば相手に自分の足が踏まれたときに、踏まれた側が先に「すみません、こちらがうかつでした」と謝ることで、その場の雰囲気を良く保つような行為である。

近代法治国家においては、交通事故においては「先に謝ったほうが負け」と言われるように、江戸しぐさなど現代に取り入れられる代物ではない。何よりも責任の所在を明確にすべき法治国家からすれば、鎖国を敷いていた江戸時代の理論など前近代的であり、時代に逆行するものである。グローバルな国際社会において、情に流される非論理的な日本的価値観など話にならない。特に立憲主義、罪刑法定主義(刑事法)、弁論主義(民事法)などの法律の世界においては、そもそも相手にもされない理論である。

しかしながら、客観的に責任の所在を明確にできるという近代法治国家の仮説は、この世のトラブルを一刀両断に解決し、人間社会を幸福にしているのか。これは、一見して「否」である。客観的な責任の所在を明らかにしようとすれば、どうしても「先に謝ったほうが負け」となり、いつまでも責任の押し付け合いとなるからである。江戸人の知恵の見直しの動きは、近代の論理の優越性を揺さぶる。江戸時代の研究家として有名であった杉浦日向子氏は、「人間一生糞袋」という江戸人の啖呵に意気投合していたらしい。立派な人生哲学である。

江戸しぐさは、西洋哲学の系譜から見ても、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを見事に体現している。脳科学的にも「ミラーニューロン」の仮説に通じる。言葉は逆説的に作用し、語らないものを語り、語らないことによって語る。客観的な論理を追求する見解からは、悪くないほうが先に謝る行為など、責任の所在がうやむやになるだけの非論理的な行為であるとされる。しかし、客観的に数字で表される責任割合など、いくら判例を積み重ねても明らかになっていない。判例の集積とは、責任の押し付け合いによる泥仕合の集積であり、肥大した自我同士の憎しみ合いの残骸である。

現在社会における法的はトラブルは、最初の最初におけるボタンの掛け違いが招いたものが多い。いかに契約書が細かくなり、交渉術がマニュアル化しても、最後の決め手は「誠意のある謝罪」であったという例も多い。最初にぶつかった時に「すみません」と言えば30秒で終わるようなものを、わざわざ3年かけて争う必要もない。前近代的であろうと、時代錯誤だろうと、本人が幸せならばそれで十分である。日本人は権利意識が弱く、このままでは国際化社会で生き残れないと言われても、日常生活は平穏無事なほうがいい。