犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

本田桂子著 『その死に方は、迷惑です』

2008-03-16 01:20:00 | 読書感想文
エピローグより

「私は本書の出版にあたって、1つの夢を抱いている。それは、少しでも遺言書の効用を世の中の人にわかってもらい、いずれは生命保険なみの利用率とまではいかなくても、生命保険に入るのと同じぐらいの気軽さで遺言書を作成する人が増えることだ。そうすれば相続手続で悩む遺族が減り、故人の希望がスムースに実現されるようになり、世の中が明るくなるのではないか。いつの日か、老いも若きも、年齢や性別にかかわらず遺言書をつくることが当たり前になり、遺産争いが過去の遺物となることを私は夢見ている」(p.252より抜粋)


民主主義の法治国家が「人間の生死」というものをどのように捉えているか、そしてどのように捉えざるを得ないかが非常によくわかる本である。「生老病死」をめぐる諸々の問題は、本来は哲学的な視点なくしては語れない。しかしながら、法治国家においては、これを客観的に互換性のあるものとして捉えなければ話が進まない。そして、哲学的な視点はかえって邪魔になる。こうして法治国家は、遺言書の書式に関する規定を精密に整備してきた。死んだ後のことは知らん、人知れず静かに人生から退場したい、現代社会ではこのような死に方は遺族に必然的に迷惑をかける仕組みになっている。

本田氏は誰もが遺言書を書く社会が到来することを夢見ているようだが、そのような日はまず来ない。遺言を書いたことがわかれば、財産をもらえる人ともらえない人が判明し、かえって息子や娘の間でトラブルが発生するというようなマイナス面が指摘されているが、これはごく表面的な問題である。根本的な問題は、人間は他人の死はわかっても、自分の死は絶対にわからないという事実である。どんなに立派な遺言を書いても、それがしっかりと実行されているか、人間はそれを見ることが絶対にできない。生きているならば遺言が発効していないのだし、遺言が発効しているならば生きていないからである。これが遺言の性質である。従って、人間はどう頑張っても安心して死ぬことなどできない。

自分の死後に遺言書が引き出しにしまったまま忘れられていないか、仲の悪かった親戚に捨てられていないか、訂正印の押し忘れはないか、誤字脱字はないか。このような悩みは贅沢である。死ぬのが怖い、人は死んだらどうなるのかといった根源的恐怖に比べれば、遺言書の心配など大した悩みではないからである。やはり「生老病死」の問題は、法律論は法律論として、そのごく一部しか語れない。確かに、法律家が遺言書の有用性をPRし、醜い相続争い減らしてくれるのは好ましい。しかしながら、法律家がそれと同じ論理で、犯罪被害者遺族の支援の問題を扱われるのは非常に迷惑である。いつまでも死を受け入れられない遺族の前で、いつ相続の話を切り出そうか、そのタイミングを図っているようでは困る。そのような姿勢では、遺族の話など聞けるはずもないからである。