犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死者の独我論的観点への共感

2008-03-11 01:31:19 | 言語・論理・構造
独我論的観点には、論理的に反論することができない。世界における一切の現象は、「この私」の知覚によってしかその実在を確認できないからである。すべての世界は、「この私」の意識を通してのみ展開されている。「この私」が死ねば、その意識は消滅するから、この世界はそのまま消滅する。死者の無念とは、この独我論的観点への共感であり、絶対的不可解の謎に対する畏怖である。いったい死ぬ直前、人間は何を考えているものなのか。人間の数だけ「この私」が存在するならば、生きている人間は、他者における死ぬ瞬間の恐怖や無念に共感することができる。死者への共感とは、文法上不能であるにもかかわらず、人間においてごく自然に欲せられる思考形式である。

近代刑事裁判制度においては、人間はこのような独我論的観点への共感などしてはならない。恣意的な人間の主観を離れて、客観的な法の支配を確立するのが近代刑事裁判制度の趣旨である。殺人は殺人であり、死者は死者であり、それ以上でもそれ以下でもない。それが客観的な法制度の帰結である。こう考えてみると、法律の文法は、そもそも人間の生死を扱うことに向いていない。詐欺師や泥棒、薬物所持などを裁く場合には相応しいが、殺人罪を裁くには荷が重い。無罪の推定、刑罰の謙抑性といった原理は、すべて被害者遺族を怒らせるための嫌がらせに見えてしまうほどである。

ウィトゲンシュタインは、独我論を徹底させれば実在論に至ると述べた。これは『論理哲学論考』の断章であるが、彼の哲学の派生である法実証主義においては見事に見落とされたところである。本来であれば、独我論の反転も言語哲学を通じて初めて明らかとなるし、言語哲学も独我論の反転を通じて初めて明らかとなるはずである。独我論も実在論も、言語による作用だからである。法律学が大前提としている主観と客観という構図も、人間の個体的な発達途上において、言語の獲得なしには描くことができない。近代刑事裁判制度が過度の実証主義に陥り、専門用語の優越性によって被害者を排除したのも、この点の見落としによるところが大きい。

独我論と実在論との反転は、主観と客観の反転とは全く異なる。独我論と実在論との反転においては、客観はあり得ない。あえて言うならば、実在論とは間主観性の並立状態である。遺族による死者への共感とは、独我論と実在論との反転の作用の一環として、死者において存在していた独我論的観点への共感である。その観点は確かに過去に存在しつつ、現在では存在しないがゆえに、その解きがたい謎が苦しみをもたらす。これに対して客観的な法の支配を前提とする刑事裁判制度は、この難問をすべて底上げしている。峻厳な裁判の儀式にとって一番こわいのは、遺族による「犯人が死刑になっても娘は帰ってこない」との言葉である。国民に対する裁判の権威が、たった一言で失墜するからである。