犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

第四の権力

2008-03-24 01:05:08 | 言語・論理・構造
近代国家の三権とは、立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)である。このような機構の分散によって権力の集中を避け、絶対君主のような人物の誕生を防ぎ、権力の濫用に歯止めをかけ、国民の人権を保障するのが近代国家である。一時期、テレビ局や新聞社などのマスコミが「第四の権力」であると言われるようになり、三権をも凌ぐ存在であると言われていたが、最近はこの表現が聞かれなくなってきた。これは一体どのような現象なのか。

憲法学からすれば、このような「第四権」なる造語は、一笑に付されるべきものである。なぜなら、憲法の条文に書いていないからである。そして、マスコミは国家でも地方自治体でもなく、公権力ではないからである。そもそも、立法権と行政権の均衡のシステムには議院内閣制と大統領制があり、司法権は法の支配を実現する法原理機関であるという壮大な体系には、「第四権」など入り込む余地がない。あえて第四権と言えば、通常の司法裁判所に違憲立法審査権を与え、しかも(付随的でなく)抽象的に違憲審査を認める際に問題とされるような話である。マスコミの影響力については、あくまでも表現の自由(報道の自由と取材の自由)、そして国民の知る権利の文脈において、人権論において登場するに過ぎない。

それでは、実際にこのようなパラダイムは、現状を上手く捉えているのか。答えは、一見して否である。国家権力の濫用から市民の人権を守る、市民の表現の自由を守るという旧態依然とした構造は、小泉元首相の「小泉劇場」「刺客選挙」による自民党の大勝あたりから完全に崩れてきたことがわかる。21世紀の人類にとっては、今や核兵器よりも情報のほうが現実的な脅威である。そして、自由主義と民主主義という建前が正当なものとして成立していることを前提としつつ、世論はマスコミによって作られ、メディアによって国民の意志が左右される。ねじれ国会という民意の混乱が生じたことも、情報化社会を抜きにしては語れない。

こうしてみると、マスコミは今や「第四権」ではなく、三権を含んだ上位に位置している。選挙に当選するか否かもマスコミ次第、内閣支持率の上下もマスコミに左右され、裁判員制度の普及もマスコミの力によるところが大きい。ここで、古典的な枠組み、すなわち国家権力の濫用から市民の表現の自由を守るという説明が、広く支持を集めるわけがない。これは、何をどうしろという政策論としての制度設計の問題ではない。今この瞬間に、現実をどれだけ言語によって正確に写像しているか、論理空間を言語によって切り分けているか、そのパラダイムの巧拙の問題である。