犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者の遺族が死刑廃止を訴える行為

2008-03-18 18:24:55 | 国家・政治・刑罰
近代社会は個人主義を標榜し、日本国憲法も個人の尊厳を明記している。しかし、なかなか社会問題の一件落着、すべての問題の理想的解決という状況は訪れない。それはなぜか。法律家に聞いてみれば、保守革新が入り乱れて様々な答えが返ってくる。これに対して、哲学者に聞いてみれば、大体は同じ答えが返ってくる。それは、すべての人間はいずれ死ぬということである。どんなに個人主義を建前として掲げても、人間に死の恐怖がある限り、人間は社会を作って群れる。

自分も他人も、身近な人も地球の裏側にいる人間も、憎き犯人も政治家も、いずれは死ぬ時がくることは確実である。この確信が、人間の自覚的な同胞意識の基盤をなしている。政治的な文脈で見てみれば、個人主義の主張と人間の生死との間には、直接の関係がない。しかし、すべてを弁証法の動きで見てみれば、両者はまったく同根である。人間は死ぬ時には1人である。自分の代わりに他人は死んでくれない。しかも、すべての人間はそれぞれバラバラに死ぬ。個人主義の自由とは、問い詰めれば恐ろしい地点に至るものである。そして、自分がいつか死ぬべき存在であることを心のどこかで感じている人間は、この共通認識の反転として結束感情を持つ。

愛する人を犯罪で亡くすという極限の経験をした人間は、この不安に正面から立ち向かい、自分なりの解答を出さざるを得ない立場に追い込まれる。ここでは、いずれ死ぬべき人間である自分は、まだ死んでいない以上は、生きて共にある間は何かをしたい、何かをしなければならないという必要性の感覚に捕らわれる。それは、なぜ自分だけがこのような目に遭わなければならないのかという不条理性に対する解答への模索である。そして、弁証法的に生死を捕らえるならば、殺人者だけがこの世に生きていることは、それ自体が矛盾である。遺族が犯人に死刑を求めることは、ごく当然の論理的帰結である。

これに対して、被害者遺族が死刑廃止を訴えることもあるが、論理的帰結としては不自然である。そもそも人間の自覚的な同胞意識の基盤とは、いずれ死ぬべき運命にある人間の存在形式から生じるものである。それは、人間は生の側からしか弁証法をスタートできず、死の側から弁証法をスタートさせることはできないことに基づくものである。そうであれば、殺人事件をきっかけとして犯人を同胞意識に取り込むことは、共同存在の形式の無意味な拡張である。これは、いずれ来るべき自らの死を避けようとする行為であり、避けがたい死を直視していないことの反動でもある。被害者の遺族が死刑廃止を訴える行為は、確かに尊敬に値しないことはないが、論理的に不自然なものを万人に普遍化することはできない。