犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第15章

2008-03-13 18:46:07 | 読書感想文
第15章 いじめは「犯罪」である

いじめ問題で何がもどかしいかと言えば、生徒が自殺したときに、学校側が「いじめがあったという事実は確認できていない」、あるいは「いじめはあったが自殺との因果関係は確認できていない」と述べることである。ここには近代社会の負の側面が端的に表れている。この情報化社会において、昔の哲学青年のように人生に悩んで自殺をする生徒などまずいない。学校に通う少年であれば、事業に失敗して多額の借金を抱えるわけでもなく、病気を苦にするわけでもなく、常識的にいじめ以外の原因は考えられない。にもかかわらず、責任の所在を明らかにしなければならない近代社会は、この欺瞞的な弁解を許容してしまう。とりあえず確認できていない責任は自ら進んで負わない、これが私的自治の原則・契約自由の原則の裏面としての過失責任の原則が支配する近代社会のルールである。

近代社会では、証拠がなければ、事実は存在しなかったことにされてしまう。こうなってくると、法的な理論としては、次の行為を奨励するのが本筋となる。すなわち、「自殺しようと思っているそこのあなた。いつ誰にどのようないじめを受けたか、そしていじめ以外に自殺の動機がないことを遺書に詳しく書いてから自殺しなさい。遺書の存在がもみ消される恐れがあるため、数部コピーしておき、宛先を変えておくと安全である」。これは悪い冗談ではない。金を返して欲しければ、しっかりと借用書を取れ。離婚して慰謝料を取りたいならば、不倫現場の証拠を押さえろ。遺族に骨肉の争いを生じさせたくないならば、しっかりと遺言書を書いておけ。法律効果から法律要件を逆算すれば、どうしてもこのような行為が奨励されてくる。現に、学校側による「いじめがあったという事実は確認できていない」との記者会見が広く報道される世の中では、自殺しようとする生徒は、効果的な遺書の書き方まで知らず知らずのうちに学習してしまう。

遺書において自分をいじめた者の名前を書く。これは、無駄死にを防ぐための最大にして唯一の手段であり、自己の死に意味を与える行為である。死をもって何かに抗議する、これは古今東西において枚挙に暇がない。自爆テロや殉死にも通じる。すなわち、「自分の死を無駄にしないで、日本社会はいじめ根絶の努力をしてほしい」。これによって、自分をいじめた者に対する報復も果たせる。命が重いゆえに命を捨てたくなる。死が誘惑的なものとして希求され、恐怖の対象ではなくなり、それを実行してしまう。ここでは、自殺した生徒の内面的成熟は、自らの保身に汲々としている大人よりも、はるかに上を行っている。大人達は人生の先輩として、生徒を子ども扱いした上で、「1つしかない生命の大切さ」についてお説教をする。しかしながら、この文法に説得力を持たせたいのであれば、同時に「いじめがあったという事実は確認できていない」との文法を廃棄しなければならない。

数年前、いじめられている生徒から文部科学大臣に対して次々と匿名の自殺予告の手紙が送られ、体育祭を中止にしたり、期末テストを延期したりする出来事があった。ここで大人達が、匿名の生徒の脅しとも取れる手法に屈してしまったことが、近代社会の負の側面を端的に表している。もし仮に体育祭や期末テストを強行し、生徒が本当に遺書を残して自殺してしまったら、責任問題はどうなるのか。これを想像すると、やはり責任の所在を明らかにしなければならない近代社会は、何かがおかしいと思いながらも、保身のための安全策に走らざるを得ない。そして、ご丁寧にも「子どもの命は何よりも尊い」という取って付けたような理屈を持ち出す。しかしながら、子どもの命は何よりも尊いというならば、子どもが遺書を書かずに自殺した場合、学校側が「いじめがあったという事実は確認できていない」述べることは背理である。人間の倫理は、本来であれば、「遺書を書く余裕もないほど苦しんでいたのだろう」との方向性を指し示すはずである。