犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『坊っちゃん』

2008-03-08 18:32:24 | 読書感想文
川上未映子氏の『乳と卵』のラストシーン、生卵を顔にぶつける場面を読んでいたら、なぜか『坊っちゃん』のラストシーンを思い出したので、十数年ぶりに読み返してみる。明治以来、無数の作家が文壇にも登場できず無名のままに消え、あるいは有名になっても長く続かずに消える中にあって、夏目漱石はなぜこれほど長く親しまれているのか。本人はお札の肖像画にもなり、作品は小中学校の教科書にも載り続け、『坊っちゃん』は球場や電車の名称にまでなっているのはなぜなのか。

こんな一節がある。「生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。ただ校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。商人が頭ばかり下げて、狡い事をやめないのと一般で、生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものでない。よく考えてみると世の中はみんなこの生徒のようなものから成立しているかも知れない。人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない」。「赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。どうしても腕力でなくっちゃ駄目だめだ。なるほど世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ」。

夏目漱石の作品は、すべてイギリス留学における苦渋に満ちた体験がベースになっていると言われている。彼は日本において、近代社会がもたらす陰の部分を最初に洞察した作家であった。そして、近代の個人主義がもたらす人間の孤独を洞察した。近代的な自我は、一方では正義心や独立自尊の精神として現れるが、他方ではエゴや嫉妬として人間を苦悩へと引きずり込む要因ともなる。彼の小説は、すべて近代的個人主義と日本的社会との格闘の産物であり、最後には「則天去私」の境地に達したと言われている。漱石の小説が平成の時代にまで読み継がれているのは、やはり現在にもそのまま通じるものがあるからである。近代の個人主義に基づく憲法の国民主権、平和主義、基本的人権の尊重がなかなか根付かないのは、国民の理解が足りないからではなく、国民が賢いからである。

『坊っちゃん』の最後のシーンは、坊っちゃんと山嵐が不祥事を暴くため、芸者遊び帰りの赤シャツと野だいこを取り押さえて殴る場面である。坊っちゃん達は旅館の座敷に踏み込みたいが、どこの座敷にいるかわからない。正面から面会を求めれば逃げられるし、無理に踏み込めば遮られる。仕方なく旅館の外で待って取り押さえたところ、赤シャツが「芸者を連れて泊まったという証拠がありますか」と論理的に反論したため、坊っちゃん達は業を煮やし、激しく暴行を加えた。ここでは、近代法の大原則である証拠裁判主義、適正手続の保障、デュープロセスの思想などが見事に皮肉られている。小難しい理屈などどうでもいい、俺は曲がったことや卑怯なことが大嫌いだ、この筋の通った坊っちゃんの行動が現在でも人気を集める理由である。

現代の基準に照らして見れば、赤シャツと野だいこの行為は、仮に地方公務員法違反にあたるとしても、証拠不十分として立件されない可能性が高い。その反面、坊っちゃんと山嵐の赤シャツと野だいこに対する傷害罪(刑法204条)の共謀共同正犯(刑法60条)の成立は明らかである。被害者の受傷状況および前後の状況を総合すれば、現場共謀が成立していることは明白であって、同時傷害の特例(刑法207条)を借りるまでもないからである。そして、坊っちゃん達は「俺は逃げも隠れもせん。警察に訴えたければ勝手に訴えろ」と言って待っていたが、赤シャツ達は2人を訴えることができなかった。ここには単純でありながら、人間の倫理に対する深い洞察が示されている。現在の法治国家が何となく変なのは、赤シャツの立場にある者が、現実に坊っちゃんの立場にある者を民事的に訴え、あるいは刑事的に告訴しているからである。