犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

城山三郎著 『指揮官たちの特攻』

2008-03-19 02:19:35 | 読書感想文
「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし、みなは長い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、必ず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」(大西瀧治郎中将の訓示より、p.52)


特攻隊員は、なぜ逃げ出さなかったのか。確実に死ぬことを考えれば、捕らえられて殺される危険があろうとも、どんなことをしてでも逃げるのが普通ではないか。このような子どものような疑問は、非常に大切である。近年の議論はあまりに成熟しすぎて、このような単純な疑問の出る幕がない。歴史認識の問題はアジアの各国をも巻き込み、靖国神社や日の丸・君が代の問題は伝統的な左右のイデオロギーの問題と切り離せなくなっている。しかしながら、特攻という事実をありのままに捉えるならば、そこには後世における我々の解釈を容れる余地がない。

「特攻隊においては人の命が非常に軽く扱われていた」。この命題は、人間の生命の重さを示そうとしているが、図らずも特攻隊員の死は犬死にであるとの見解を示してしまう。「国家のために命を捧げた人々に敬意を示す」。この命題も、特攻隊員の生命の重さを示そうとしているが、死に意味を与えることにより、なぜか戦争を賛美する意味を帯びてしまう。これは生死の弁証法の必然であり、メビウスの輪のようなものである。特攻隊に敬意を表すれば平和を愛することになり、平和を愛すれば戦争の悲惨さを唱えることになるが、戦争の悲惨さを唱えれば特攻の愚かさを指摘することになる。いつの間にか話が逆になっている。靖国問題について答えが出ないのも当然である。左右両陣営は対立しておらず、同じことを言っているからである。

後世に歴史を語り伝えたいという強い動機は、それゆえに創作が混入する。歴史から何かを学びたいという強い意欲は、それゆえに解釈が混入する。そもそも他者に対して語ることができないものは、後世に語り伝えることもできない。風化させてはいけない、語り継がなければならないという議論は、容易に政治論に転化し、結果的に風化を促進する。政治家の靖国神社への公式参拝は是か否か、このような政治的な二者択一の問題を延々と論じ続けることは、特攻というありのままの事実を語り伝えることを阻害する。「二度と戦争を起こしてはならないという決意で参拝した」と言う人に対して、「あの場所は軍国主義の象徴であるからその決意は嘘である」との批判が成立してしまうこと、これが弁証法の必然を示している。