犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

児童買春・児童ポルノ禁止法の改正

2008-03-12 13:57:44 | 国家・政治・刑罰
自民・公明両党は、議員立法により、児童買春・児童ポルノ禁止法を改正する方針を固めた。これは、児童ポルノの画像などの氾濫に歯止めをかけるための措置であり、販売目的でなく「単純所持」するだけでも禁じることとし、新たに罰則の対象とするものである。この背景には、インターネット等を通じて児童ポルノ事件の被害者が急増していることや、国際的に日本の対応が出遅れている現状がある。日本の児童買春・児童ポルノ禁止法は平成11年に成立しているが、単純所持については禁止規定が設けられていなかった。これは、「プライバシー権の侵害につながる」などの様々な反対意見があり、見送られていたものである。

今回も、例によって人権論からの反対意見がある。精神的自由権に対する規制が問題となると、議論は必ずこのパラダイムに収まり、全く動きが取れなくなる。この原理主義的な思考パターンがもたらした弊害は非常に大きい。これは、犯罪被害者が直面している問題一般と全く同じ構造である。原理主義的な人権論からすれば、単純所持を規制する法律はあまりに広汎に過ぎ、日本の法制度上も類を見ないほど過激で恐ろしいものであり、戦前に逆戻りする危険があるなどと主張されることになる。ここで「人権」の文脈を奪われてしまえば、何も知らずに児童ポルノに出演させられた子どもの人権を唱えても、それは主流の人権論にはなり得ない。原理主義的な人権論は、どうしても公権力による刑罰からの自由を問題とするからである。

近代国家の憲法学は、大前提としてこのようなパラダイムに立った上で、さらに細かい話を展開してゆくため、根本的なところがどうにも抜けてしまう。我が国の憲法学の通説からすると、プライバシー権・自己決定権(13条)、思想良心の自由(19条)、表現の自由(21条)は精神的自由権であるから、厳格な基準によらなければならない。そして「児童ポルノである」という表現内容に着目する規制は、時・場所・方法に関する内容中立規制よりも厳格に行わなければならない。しかるに、LRAの基準に照らし合わせて考えてみれば、売り手側の罰則強化や、プロバイダとの協力によるネット規制の強化などの方法が考えられ、およそ所持自体を禁止するのは明らかに行きすぎであって、違憲の疑いがある。憲法論から演繹的に考えると、どうしてもこのような議論に突入してしまう。

「規範定立→あてはめ」という演繹法の最大の弊害は、抽象論を現実の人間に強制する点である。法改正に反対する著名な学者や専門家は、何も自分が児童ポルノに興味があって、自分の秘かな楽しみが奪われることを怒っているわけではない。あくまでも「自分はロリコンでも変態でもない」との安全地帯に立った上で、高尚な議論を精緻に展開している。これは、「自分は人殺しではない」「自分は放火魔ではない」との安全地帯に立った弁護人による刑事弁護と同じ構造である。この安全地帯にいる限り、どんな恥ずかしい話からも恥の要素は払拭され、話はいつの間にか高尚になる。そして抽象論において正義が実現しているならば、あとはそれが実現されなければならないということになり、現実の捉え方も一元的になる。

そもそも、わいせつ物に関する罪は、公権力に対する表現の自由の問題としてのみ一元的に捉えられてきた。日本の憲法学においても、「刑法175条(わいせつ図画販売目的所持罪)が憲法21条(表現の自由)に反するか」といった視点はあっても、「女性の性の商品化は女性の人権を侵害するか」という視点は皆無である。原理主義的な人権論は、公権力による刑罰からの自由を問題とするからである。そして、わいせつ表現をどこまで許容するかは民主主義の成熟度を測る試金石であるといった言説が尤もらしく喧伝されてきた。このような「人権を見て人間を見ず」の理論を唱える学界の権威は、自らはエロ本やビデオを奥さんに見つからないようにどこに隠しているのかは語ろうとしない。そして、電車内で痴漢をした場合には、一般の会社員とは比較にならないほど大きく報道される。

幼い子どもが何も知らずに大人の手によって児童ポルノに出演させられ、大人になって気が付いた時には、その画像が地球の裏側まで回っていた。この恐るべき現実からは一生逃れられないどころか、死後も逃れられない。演繹的な人権論による一元的な捉え方は、この最初の基本を故意に見落とすため、その後がすべて原理主義的となり、他者との議論が成立しなくなる。そんなに児童ポルノが好きならば、逮捕されるのを覚悟で持てばいい。逮捕されるのが嫌ならば、児童ポルノを持たなければいい。実際のところ、話は極めて単純である。難しい話をしたいならば、机上の空論でなく、地に足を着けなければならない。自らは変態ではないとの安全地帯に逃げ込み、抽象的な人間の人権を論じることによって、具体的な目の前の人間の人権侵害が見えなくなる。これも、犯罪被害者が直面している問題一般と全く同じ構造である。