犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

江戸しぐさ

2008-03-06 21:47:34 | 言語・論理・構造
「江戸しぐさ」とは、江戸時代の商人の生活哲学のことであり、現代の世相に鑑み、江戸人の知恵を今に生かすという観点から注目され始めているものである。この真髄とも言える仕草に、「うかつあやまり」という行動がある。例えば相手に自分の足が踏まれたときに、踏まれた側が先に「すみません、こちらがうかつでした」と謝ることで、その場の雰囲気を良く保つような行為である。

近代法治国家においては、交通事故においては「先に謝ったほうが負け」と言われるように、江戸しぐさなど現代に取り入れられる代物ではない。何よりも責任の所在を明確にすべき法治国家からすれば、鎖国を敷いていた江戸時代の理論など前近代的であり、時代に逆行するものである。グローバルな国際社会において、情に流される非論理的な日本的価値観など話にならない。特に立憲主義、罪刑法定主義(刑事法)、弁論主義(民事法)などの法律の世界においては、そもそも相手にもされない理論である。

しかしながら、客観的に責任の所在を明確にできるという近代法治国家の仮説は、この世のトラブルを一刀両断に解決し、人間社会を幸福にしているのか。これは、一見して「否」である。客観的な責任の所在を明らかにしようとすれば、どうしても「先に謝ったほうが負け」となり、いつまでも責任の押し付け合いとなるからである。江戸人の知恵の見直しの動きは、近代の論理の優越性を揺さぶる。江戸時代の研究家として有名であった杉浦日向子氏は、「人間一生糞袋」という江戸人の啖呵に意気投合していたらしい。立派な人生哲学である。

江戸しぐさは、西洋哲学の系譜から見ても、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを見事に体現している。脳科学的にも「ミラーニューロン」の仮説に通じる。言葉は逆説的に作用し、語らないものを語り、語らないことによって語る。客観的な論理を追求する見解からは、悪くないほうが先に謝る行為など、責任の所在がうやむやになるだけの非論理的な行為であるとされる。しかし、客観的に数字で表される責任割合など、いくら判例を積み重ねても明らかになっていない。判例の集積とは、責任の押し付け合いによる泥仕合の集積であり、肥大した自我同士の憎しみ合いの残骸である。

現在社会における法的はトラブルは、最初の最初におけるボタンの掛け違いが招いたものが多い。いかに契約書が細かくなり、交渉術がマニュアル化しても、最後の決め手は「誠意のある謝罪」であったという例も多い。最初にぶつかった時に「すみません」と言えば30秒で終わるようなものを、わざわざ3年かけて争う必要もない。前近代的であろうと、時代錯誤だろうと、本人が幸せならばそれで十分である。日本人は権利意識が弱く、このままでは国際化社会で生き残れないと言われても、日常生活は平穏無事なほうがいい。