犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

米原万里著 『真昼の星空』

2008-03-23 17:02:42 | 読書感想文
●ロシアの小咄(p.91)
ガガーリンが人類初の宇宙訪問から帰ってくると、すぐに共産党書記長から電話がかかってきた。「頼むから、神様に会ったことだけは内緒にしておいてくれ」。
受話器を置くや、また電話がけたたましく鳴る。ヴァチカンの法王からだった。「頼むから、神様はいなかったってことだけは、黙っていてくれ」。

●中国とソ連の実話?(p.64)
1960年代末から70年代にかけて中ソ国境紛争が一触即発状態になったときのことである。19世紀後半に帝政ロシアが清国に押し付けた一連の不平等条約によって、150万平方キロ以上もの領土をソ連は不当に領有していると詰め寄る中国側に対して、ソ連側交渉当時者は言い放ったのだった。「そんなに過去の取り決めにこだわるなら、もっとさかのぼって、貴国の北端は万里の長城ってことで手を打ちませんかね」。
この発言に中国代表団の面々は、しばし絶句したと伝えられている。

●日本の実話(p.87)
会社と自宅の往復に毎日4時間かかる友人Tが嘆いた。「あーあ、オレの一生は、毎朝2時間もかけて行く価値もない会社に通い、毎晩2時間もかけて帰る価値もない家庭に戻ることを繰り返すうちに終わっちまうのかなあ」。
そのTが一念発起して、職場から30分ほどのところに家を購入した。「ずいぶん、時間に余裕ができたでしょう」と水を向けると、それがそうでもないのだと言う。
「最近は本を読む時間が捻出しにくくなっちまってね」。思えば通勤2時間の電車のなかは、勤め人としての義務にも、家庭人としての義務にも縛られない自分だけの自由な時間だった。「それに、疲れたときなど、一眠りするのに、ほど良い時間だった。あの電車のなかの一睡ほど甘美な眠りはなかったね。そこへいくと、今の通勤時間は短すぎて何もできやしない」。


●結論
大真面目な行動は笑いをもたらす。
笑いは絶句である。絶句の中に真実が現れる。
笑おうとすると笑えなくなり、笑ってはならない状況では笑うしかない。
怒りを鎮めるのは笑いである。世界平和のために必要なのは不真面目さである。

視線の二重性

2008-03-23 01:51:09 | 時間・生死・人生
犯罪とは、考えようによっては、最も法律用語によっては表現しにくい種類のものである。この不可解な人間存在の欲望の発現について、専門用語で分析的に記述し尽くせるわけがない。もちろん定型的な客観的構成要件を仮構し、そこから故意や動機といった内心を派生的に位置づければ、形而下的なルールとしては簡単に済む。しかし、どんなにそのように済ませようとしても、加害者や被害者の全人格的な問題を消すことはできない。

人間は個別の身体において生きるしかない以上、世界を内的に理解するしかない。人間は自分の生から抜けられないからである。人間は、世界を内的に理解しつつ、外面において自己対象化的な観点を保有する。これをバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897-1962)は「実存の孤独」と呼ぶ。人間は常に二重の視線によって物事を見ているしかない。これは視線の二重性と呼ばれる。

犯罪とは、人間存在における究極的に不可解な現象である。この不可解さは、加害者側の二重視線よりも、被害者側からの二重視線によって捉えるほうがはるかに真実味を帯びてくる。人間の生は、実証主義的観点、客観的・科学主義に還元できるものではない。法律や裁判は、あくまでも犯罪における一側面を取り扱うことができるのみである。裁判とは被害者保護のためにあるのではなく、加害者の刑罰を決めるためにあるのだという説明は、その意味でこの上なく正しい。

加害者にとっては、法廷内において、柵の中の被告人席に座らされていることそのものが問題である。被害者にとっては、法廷内において、柵の外の傍聴席に座らされていることそのものが問題である。これは法律問題ではない。自己対象化的な観点は、客観的・科学主義による唯一絶対的な視線の変更を促す。視線の二重性は、人間による世界観の多数性を再認識させ、法律は形而下的な世界における関係的な共通了解の1つでしかないことを明らかにする。

犯罪という不条理で不可解な現象は、本来は法律用語によっては表現しにくい。ところが、法治国家にどっぷりと浸かってしまうと、犯罪とは規範に反するものであり、その規範においては法と道徳を峻別しなければならないとの常識で固まってしまう。加害者側から被害者側へのコペルニクス的転回とは、このような二重視線の位置の変更である。これは、客観化・構造化のパラダイムと、実存的・現象学的なパラダイムの相克の問題でもある。