犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者保険制度の可能性

2008-03-26 18:03:44 | 時間・生死・人生
人類は生命保険というシステムを発明すると同時に、保険金殺人という形態があることにも気付いてしまった。先進国では、生老病死に対するあらゆる不安が保険という名の商品によって填補されようとしている。そこでは、不明確なものを明確にしようとするあまり、偶然が必然に置き換えられる。和歌山毒物カレー事件は、この負の面の象徴であった。どんなに事前の審査を厳しくしても、生命保険というシステムそのものに伴う問題点は絶対に消えない。高い保険料を払えば高い保険金がもらえるという命題と、人間の生命に値段をつけているという命題は、切っても切り離されるものではないからである。

生命保険という制度を維持していくためには、保険会社が多額の保険料を集めることが至上命題となる。そして、そのために最も手っ取り早い方法は、人々の不安を煽ることである。本当にこのままで大丈夫なのですか。老後が不安ではありませんか。突然の事故が不安ではありませんか。このように繰り返されれば、不安にならないほうがおかしい。こうして、保険金の不払いという不祥事を恒常的に抱えながらも、現代において保険というシステムは欠かせないものとなっている。特に社会保険庁の不祥事で公的年金が信用できないとなると、国に頼らずに自分の身は自分で守らなければならないという気にもなってくる。

それでは、犯罪被害について、このようなシステムは導入できるか。理屈としては導入できるが、現実には非常に危険である。犯罪被害に対する不安を煽ろうとすれば、いくらでも煽れるからである。本来、人間が生きる上で最低限必要な衣食住、教育、医療などは、金銭による商品化にはなじまない。このような人間の根本的な事項を過度の自由競争に任せるならば、すべてはサービスという美名の裏で商品化され、金銭による序列がつけられてしまうからである。そして、犯罪被害による生老病死の苦しみは、さらに商品化とは無縁のものであり、本来的にリスクを分散して担保するというシステムになじむものではない。どんなに国家の社会保障制度が信用できなくても、ここだけは国家による補償によらなければならない道理である。

現在でも、交通事故による被害者は自賠責保険の請求で苦労しており、保険会社からの値切り交渉で心身をすり減らしている。これも広い意味での二次的被害である。保険会社の契約書は、読む人を拒むように薄く小さな字をびっしりと列挙し、しかも大切なことを極力わかりにくく書いている。これは営利を追求する企業としては常識であるとしても、これを犯罪被害一般にまで広げられてはたまらない。本来、国家の社会保障制度が整っているならば、遺族にとって生命保険金は必要ない。この原則は古典的ではあるが、論理的に否定することができない。そして、犯罪被害については、本質的にこの大原則からはみ出してはならない。すなわち、国家による給付金制度の拡充以外に方策はない。