犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死から逆照射されない思想 その2

2007-12-21 13:33:20 | 時間・生死・人生
福岡市東区の飲酒運転追突事故の今林大被告は、被害者の3人の人生を奪い、時間を奪い、将来を奪いつつ、自らはこの世に生きている。ここで、「ハイデガーの思想を借りれば今林被告の死が見えてくる」というのはいかなることか。それは、時間の中に投げ込まれた現存在たる人間の存在の形式においてである。通常の意味で「将来」と言えば、それは未だ現実的になっておらず、これから存在することになるような「将来の今」のことである。それは多くの場合、輝かしい希望的観測をもって語られる。しかしながら、ハイデガーによれば、将来とは単に死の別名である。「将来」とは、現存在たる人間が、自分の存在可能において自分自身に向来することを指す。幼い3人の将来を死に追いやった今林被告は、本来であれば、宇宙の中でたった1人この哲学的命題に直面して苦悩しなければならない道理である。

ところが現実の裁判における今林被告の陳述は、3人の人命を奪ったことに対する哲学的苦悩とは遠くかけ離れたものであった。弁護側の最終弁論では、「被告人は既に社会的制裁を受けており、もはや刑罰は必要ではなく、執行猶予に付すべきだ」との主張がなされた。刑事裁判のテーマは国家刑罰権の存否であり、今林被告が争っているのも刑期の長さである。なぜ今林被告は、1日でも刑期を短くしようとして必死に争っているのか。公訴事実(訴因)の肝心なところは否認し、情状に有利となる場面では遺族に謝罪し、すべて刑期を短くする方向での逆算に基づく戦略を立てているのはなぜか。これもハイデガーの言葉を借りれば、時間の中に投げ込まれた現存在たる人間の存在の形式の必然であり、それに基づく人間の頽落である。ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間である。それは瞬間の生であると同時に瞬間の死である。この文脈においては、一言で「メメント・モリ」と言ってしまってもよい。

今林被告は23歳である。そして危険運転致死傷罪・道路交通法違反の併合罪の最高刑は懲役25年であるが、業務上過失致死傷罪・道路交通法違反の併合罪の最高刑は懲役7年半である。もし危険運転致死傷罪が適用されれば出所は48歳になるが、同罪が適用されなければ出所は30歳で済む(仮出獄の場合を除く)。この差を目の前にぶら下げられれば、多くの人間はどうしても必死になって争いたくなる。他人の命を奪ったことは重々承知の上、それでも出所が30歳か48歳かという人生の分岐点に立たされれば、必死になって争いたくなる。これは、自分は自分であり、他人は他人であり、自分は他人ではなく、他人は自分ではないという存在者の存在の形式に基づくものである。そして、この形式にどっぷりと浸かってしまうことが、まさにハイデガーの述べる頽落である。その意味では、他人の生命を奪った者が徹底的に自己弁護できる近代刑事法のシステムは、確信犯的な頽落の実現であると言ってもよい。

人間は生まれ落ちた限り、1秒1秒死へと近づく。生きていることは、死に近づくことの別名である。これは誰のせいでもない。人生の残り時間が1秒1秒減っていることが避けられないとなれば、懲役25年と懲役7年半の差は天国と地獄である。30代を丸々刑務所で過ごすのか否か、これは天地の差である。他人の人生を奪ってしまったこととは無関係に、自分の人生は一度しかない。刑期を1日でも短くしたい、この欲求は存在不安の効果であり、変形ニヒリズムの効果である。他人の冥福を祈ることも大切であり、遺族に謝罪を続けることも大切であることはわかっているが、それでも30代を丸々刑務所で過ごすことだけは絶対に嫌だ。人間がこのような変形ニヒリズムから逃れられないのであれば、その欲求を自らに端的に認めればよいだけの話であり、「人権」に頼る必要などない。

今林被告の弁護人は、「無理に無理を重ねて立件しようとしているのだから、訴因変更命令は当然。事故の態様についても冷静な分析がなされることを希望する」とのコメントを出したが、これは語るに落ちている。客観性、合理性、冷静な分析といった抽象的な理論は、客観性を装うことによって、すべて刑を1日でも軽くしてほしいという主観的な欲求に支えられ、しかもそれを隠そうとする。これに対して、遺族の大上哲央さん夫妻は、「厳重に処罰してほしい気持ちはあるが、客観的証拠に基づく冷静な判断であればやむを得ないと受け止めています」との談話を発表した。この短いコメントは、出てきた言葉のほうを読もうとすると何も読めない。このような言葉を出そうとする源泉のほうを見ようとすると、近代刑法理論が人間存在に強いる残酷さが自然と見えてくる。

(明日に続く)

死から逆照射されない思想 その1

2007-12-20 14:40:56 | 時間・生死・人生
昨年8月、幼児3人が犠牲になった福岡市東区の飲酒運転追突事故の裁判で、福岡地裁は福岡地検に対し、業務上過失致死傷罪と道交法違反(酒気帯び)を予備的訴因として追加するよう命じた。これは、裁判所が危険運転致死傷罪の適用が困難であるとの心証に達したことに基づくものである。現代の法治国家において、客観的な刑法の条文への構成要件該当性がないと言われれば、もはや取りつく島がないようにも思えてくる。父親の大上哲央さんも、「客観的証拠に基づく冷静な判断であればやむを得ない」との談話を発表した。しかし、これらの法的な原則をすべてわかった上で、やはり割り切れない。納得できない、何かが狂っている、このような違和感はどうしても残る。

客観的な刑法の構成要件該当性から厳密に危険運転致死傷罪の条文解釈をしている専門家からすれば、このような違和感は無知な素人の感情論である。現に近代社会における裁判は、かような感情論は非現実的であるとして切り捨ててきた。しかし、犯罪という言語道断な現象を正面から捉えようとすれば、この違和感こそが何よりの現実である。納得できない、何かがおかしい。人間の直観的な倫理はどうしてもこのように感じざるを得ない、これが動かぬ現実である。これ以上の現実はない。犯罪という割り切れない現象は、「構成要件」という側から見れば簡単に割り切れてしまうが、それはあくまでも最初から割り切れる解答を設定した上での逆算である。「犯罪被害によって我が子を一度に3人も失う」という側から見てみれば、客観的な世界のみが現実であるという根拠は揺らいでくる。

犯罪被害の問題が「問題」として必然的に浮上してくる時、その問題の核心は何か。それは、「理不尽さ」「割り切れなさ」である。客観的な実証科学は、このような問題設定を劣ったものとして、全く相手にしてこなかった。客観的な条文こそが動かぬものとして存在し、個々の事例がその条文に当てはめられる。そして、ある事例は刑法208条の2(危険運転致死傷罪)の構成要件に該当するが、別の事例は同条の構成要件に該当しない。福岡の事件も同条に該当しない。これで何が問題か。ロジックとしては完璧に筋が通っており、一見すれば反論の余地もない。しかし、やはり割り切れないものは割り切れないし、反論したいものは反論したい。そして、このような現実が存在することだけは否定できない。犯罪被害の問題の核心が「割り切れなさ」であるならば、それを無理に割り切る実証科学の方法は、犯罪に関する問題の核心をスッポリと切り落したまま平然としていることになる。

「犯罪被害によって我が子を一度に3人も失う」とはどのようなことか、この問題設定に耐えられないとなれば、議論は裁判所の訴訟指揮の妥当性に流れる。あるいは、検察官の訴訟進行の巧拙論などに流れる。訴因変更の要否、訴因変更の可否、訴因変更命令の形成力は刑事訴訟法の一大論点でもあり、裁判員制度の導入を控えて、専門家による素人への懇切丁寧な説明も求められるところではある。しかし、何だか物足りない。本質的な話が抜けている気がする。この直観は正しい。もちろん、「幼い命が3つも失われた」という言い回しでは、法治国家には何の効果も与えない。ここで、ハイデガーの言葉を借りて、「未来の死に逆照射される形で、その無との関係性において今が生じる」と言えばどうなるか。割り切れなさの核心が段々と見えてくる。ここで見えてくる死は、大上紘彬ちゃん(4つ)、倫彬ちゃん(3つ)、紗彬ちゃん(1つ)の死ではない。今林大被告(23歳)の死である。

(明日に続く)

小谷野敦著 『すばらしき愚民社会』

2007-12-19 21:57:54 | 読書感想文
近年になって「犯罪被害者の人権論」が唱えられてきたが、これは人間の実感に沿う人権論、生活に密着した人権論である。建前としての「被疑者の人権=無罪の推定」や「出所者の人権=社会復帰」がなかなか理解を得られなかったことに比べると、この世論のバランス感覚は実に自然である。どこの国でも、アカデミズムでは左が多数派、ジャーナリズムでは左がやや多数派、大衆においては保守が多数派である(p.77)。どんなにインテリが左翼的な人権論を唱え、市民による権力の監視を唱えたところで、その市民とは大衆のことであるから、アカデミズムの理屈がそのとおりに実現することは少ない。

「犯罪被害者の人権論」が唱えられてきた時期と、日本の右傾化が指摘されてきた時期とは一致している。もちろんこれは無関係ではない。犯罪被害者が無視され続けてきたのは、明らかにアカデミズムやジャーナリズムにおいて左派が多数を占めてきたことによる波及的効果である。これは、学問と政治が混同されてきたことの効果でもある。学問は万人にとっての共通の真理を追究する営みであるが、政治は多数派形成による権力争いを本質とする。マルクス主義以来、政治と研究の区別がつかない学者が圧倒的になってしまったが、政治活動をしたいならば研究活動とは別にすればよい(p.130)。

保守的な人々は頭が固く、革新的な人々は物わかりがいい。保守派はお説教ばかりして若者に嫌われるが、革新派は若者に対して非常に物わかりが良く、広く支持される。このような一般的な傾向は確かにある。そして、アカデミズムでは左が多数派であるという現実は、このインテリ特有の物わかりの良さに支えられてきた。この構図が極端に表われるのが少年犯罪である。現在でも少年犯罪をめぐる問題においては、「犯罪被害者の人権論」と従来の人権論とが特に鋭く衝突している。この問題は、「少年」などという法律用語に振り回されず、単に「若者」と言えば済む話である。インテリは若者に「話のわかるヤツ」だと思われたいがため、いい歳をしても若者に媚びる(p.183)。左派のエリート意識が特に少年事件において強烈に表われることは、単なる偶然ではない。

憲法学や刑事法学は左派が多数派を占める典型的な領域である。そこでは、暴力的表現を許容することは進歩的であり、古臭い道徳によってこれらを縛るのは時代錯誤であるという見解が通説となっている。暴走族が爆音をまき散らしているのを条例で規制しようとすれば、それは集会の自由に対する人権侵害であるといって争われ、住民の迷惑は見落とされる。このような図式で見てみれば、革新的な人々が少年の恐喝や万引きに対して寛容であり、オヤジ狩りやリンチなどに対して無条件の深い理解を示していることも理解できる。その反面、警官による暴行や教師の体罰は絶対に許さないことも理解できる。左派のエリート意識は、自らが保守的な人間と見られることを何よりも恐れる(p.219)。そして、被害者に感情移入するのは愚かな一般大衆であり、自分は彼らとは違って真理を知っているとの自負がある。

理由をつけてから冥福を祈る人はいない

2007-12-18 22:01:01 | 時間・生死・人生
長崎県佐世保市の散弾銃乱射事件では、倉本舞衣さん(享年26歳)と藤本勇司さん(享年36歳)の命が奪われた。2つの尊い生命が失われた。2つの消えた命が戻ることはない。人の命は地球より重い。さて、このような文字を追っていると、ふと気が付くことがある。失われた生命は3つではないのか。そのとおりである。馬込政義容疑者(享年37歳)も自殺し、そのたった1つの命がこの世から消えた。世界に1つしかない命が同じように失われたのに、人間の生命には差があるのか? 命の重さに上下があるのか? 我々は「3つ」の尊い生命が失われたことを厳粛に受け止めるべきではないのか? 改めてこのように問われてみると、なかなか理屈では即答しにくい。

この種の問いは、大事件や大事故のたびに現れることがある。平成17年4月25日のJR福知山線脱線事故においては、107人の命が奪われたが、そのうちの1人は運転士であった。JR西日本は、事故後に何回も追悼慰霊式を行っているが、慰霊の対象は乗客106人に限っており、常に運転士は除かれている。さて、人の命は地球より重いのに、運転士の命は重くないのか? もう少し前、平成13年1月26日には、JR新大久保駅において、酔ってホームから転落した男性と、その男性を助けようとして線路に降りた男性2人が山手線にはねられて死亡するという事故があった。日本中から2人の勇気ある行動に賛辞が送られ、多くの人が2人の死を悼んだ。しかし、亡くなったのは3人ではないのか? 人間の生死に差をつけることができるのか?

このような問いは、一見すれば盲点を突いているようにも見える。ところが、「改めて問われてみるとわからない」というこの問いの形式において、この問いは入口が逆である。哲学的な問いのように見えて、実は哲学とは似て非なるものである。我々はどういうわけか、改めて問われる前に、自ら解答を出している。佐世保市の散弾銃乱射事件では、殺された2人の冥福は祈りたいが、自殺した犯人の冥福は祈りたくない。福知山線脱線事故や、新大久保駅転落事故も同じである。いずれ死ぬべき存在である人間はなぜか、他者の死に直面して、瞬間的に結論を出していざるを得ない。理屈によって論理的に説明することはできないが、冥福を祈る死と祈らない死がある。改めて「命の重さに差をつけるのか」と問われて悩む、それ以前に人間の倫理は一定の結論を指し示している。この恐るべき現実を見落としては、哲学的な問いもあり得ない。

このような人間の倫理は、死刑存置論と死刑廃止論の対立においても如実に現れる。死刑は国家権力による殺人ではないのか? 生命の重さを示すのに、国家が殺人を犯すのは自己矛盾ではないのか? 改めてこのように問われてみると、やはりなかなか理屈では即答しにくいところがある。しかし、我々はどういうわけか犯罪者や死刑囚の冥福など祈りたくない。アメリカ同時多発テロで飛行機を操縦してビルに突っ込んだ犯人や、イラクのフセイン大統領の生命も地球より重いはずだが、どうしても冥福を祈りたくない。池田小学校殺人事件で死刑になった宅間守被告の冥福も祈りたくない。祈りたくないから祈りたくないのであり、他に理由などない。人間の直観が先にあって、それを正当化するために後から理由をつけているという現実は、実証科学からは消極的に捉えられている。しかし、どこの世界に理由をつけてから死者の冥福を祈る人間がいるだろうか。

池田晶子著 『ロゴスに訊け』   「ネットの言葉に自由はない」より

2007-12-17 18:48:13 | 読書感想文
情報化社会が最も苦手とすることは、1つの事項を掘り下げたり、深めたり、語り継いだりすることである。現代社会では、数か月もかかって何かを掘り下げているうちに、多くの人がその話題をすっかりと忘れてしまう。世論はあっという間に盛り上がり、あっという間に消えてゆく。そして、次の話題に移り、それもまたすぐに消える。今や「人の噂も七十五日」ではなく、「人の噂も三日」である。情報を広く世間に訴えることが可能となった結果、物事の風化が食い止められるわけではなく、逆に情報の洪水に飲まれて風化はいっそう加速する。

吉野家の「テラ豚丼」による関連サイト大炎上が11月30日、ケンタッキーの「ゴキブリ揚げ」による関連サイト大炎上が12月6日、バーミヤンの「ゴキブリラーメン」による関連サイト大炎上が12月10日であった。来年の今頃はもちろんのこと、来週にはほとんどの人が忘れているだろう。このバカバカしさ、空しさを埋めるために、ネットにはまった人間はさらに次なる大炎上を期待し、加担し、盛り上がる。ネット依存症も、ギャンブル依存症や薬物依存症と非常に似ているところがある。そして、誰しも簡単に参加できる点で、さらに危険であり、抜けるのが難しい。


P.16~ 抜粋

出版社の思惑、新聞社の権力などを一足跳びに無視できるインターネットという方法は、言葉の自由のためには画期的ではなかろうかと、当初は私も思ったのである。けれども、やはり、必ずしもそうではないらしい。ちょっと考えれば当然である。愚劣な力関係から自由になったところで、その人の精神が同じく愚劣なままなら、そこに書かれる言葉もやはり愚劣であるに決まっているからである。いや、ひょっとしたら、「愚劣であることの自由」とは、事態はいよいよ最悪なのではなかろうか。

ホームページというのは、つまるところ「自己表現」ということらしいのだが、その表現されるところの自己がナンボのものか、それが問題なのである。なるほど表現することは自由だが、言語とはそれ自体が精神に課するところの必然、必然的形式である。そのことを認識し、自己として自覚することによって、その精神は言語となる。したがって、表現されるところのものは必ずしも「自己」ではない。それを自己と呼ぶならば、大文字の「精神」である。何をして楽しかったとか、アタシ悩んでることがあるの、といったこととはおよそ関係がない。

(6年前の2001年の文章である。)

あれから22年

2007-12-17 00:29:01 | 時間・生死・人生
「家の人そして友達へ。突然姿を消して申し訳ありません。くわしい事については○○とか△△とかにきけばわかると思う。俺だって、まだ死にたくない。だけど、このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だからもう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」。1986年(昭和61年)2月1日、いじめを苦にして自殺した当時中野富士見中学2年生の鹿川裕史君の遺書である。顔にマジックでヒゲを書かれ、廊下で踊らされ、服にマヨネーズを掛けられ、教師も加わって「葬式ごっこ」をされ、ひざ蹴りを加えられ、校庭で歌を歌うことを強制され、靴を便器の中に投げ込まれて、彼は自殺するしかなかった。

あれから約22年、遺書で名指しされた○○君や△△君、「葬式ごっこ」に名を連ねたクラスメイトは、現在では35歳になっているはずである。幸せな家庭を築いている人もいるだろう。息子や娘が小学生になっている人もいるだろう。その子どもがまた学校でいじめたりいじめられたり、同じ苦労を味わっているかも知れない。このように考えると気が遠くなるが、事実は事実である。抽象的ないじめ論議を繰り広げたところで、人生の一回性が捉えられるわけもない。鹿川裕史君の事件を1つのケースとして教訓を得ようという試みは、この22年間でほとんど成功しているようには見えない。

1986年、「生きジゴク」「葬式ごっこ」の単語が日本中に衝撃を与えた地点に時間を戻してみる。さて、我々はこれからどのような世の中を作るべきか。10年後は1996年であり、20年後は2006年である。21世紀には、きっといじめのない理想的な社会が到来しているだろう。いや、絶対にそうしなければならない。そうでなければ、鹿川君の死が無駄になるではないか・・・。20年前の新聞を見てみれば、確かにこのようなことが書いてある。ところが、今やネットいじめが全盛であり、中学生の4人に1人がうつ状態らしい。我々はこんな世の中を作るために20年間も努力してきたのか? 我々は20年もかけて、こんな世の中を作ってしまったのか? このような考え方はあまりに身も蓋もないため、禁句として無視される。そして、我々は改めて無理な決意をする。20年後には、きっといじめのない理想的な社会が到来しているだろう。いや、絶対にそうしなければならない。

遺書で名指しされた○○君や△△君は今どこで何をしているのか、このような視点は数々の哲学的な問題を掘り起こす。しかしながら、プライバシーという概念で捉えてしまうと、事態は途端に平板になる。人間の存在論的な問題は、逆説によって描かれるべき事項であり、法律単語ではいかにも力不足であることがわかる。最近は個人情報保護法によって、自殺した生徒の個人名も匿名にされるばかりか、鹿川裕史君や大河内清輝君の名前まで実名を出すのが憚られる状態になってしまった。「鹿川裕史君」という単語が引き出す一連のクオリア、記憶の束の重要性を考えると、ここでもプライバシーという概念が大きな損失をもたらしていることがわかる。遺書を書いて自殺したのが誰なのか、今後はその顔も名前もわからないならば、鹿川裕史君の時のような国民的な議論は起こりにくくなる。

佐世保市 散弾銃乱射事件

2007-12-16 21:35:38 | 時間・生死・人生
●日本の銃社会化
長崎県元知事の殺害、立てこもり発砲事件、佐賀県や高知県の殺人事件など、日本でも銃による事件が増えてきた。この原因を考えていくと、いつの間にか「原因」ではなく「結果」を語ってしまっていることが多い。商品の過剰供給により銃の値段が下落して以前よりも簡単に手に入るようになった、インターネットの時代には水面下で取引がなされて警察による把握ができないといった原因を示されても、それは結果論である。「銃が悪いのか、銃を使う人間が悪いのか」という問いもあるが、何十年経っても答えが出ないのは、問題の立て方自体が下手だからである。両方悪いという結論で納得できないならば、それは数量的に悪の割合を計測できるという誤解に基づくものである。二者択一の答えなど出ない。

●民事不介入の原則
馬込政義容疑者は、銃を持って歩き回る姿を多数の人から目撃されており、近くの住民も「何か起こすんじゃないかと思っていた」と話している。交番に訴えた人は、警察官から「他人がとやかく言うことではない」と追い返されたそうである。これも何十年も前から議論されていることであり、民事不介入の原則とも関連して、なぜ警察はもっと早く動かなかったのかという非難が起きるところである。この非難を避けようとすれば、「警察官が個人の銃の所持に積極的に口出しすることは国家権力による市民への人権制約である」というパラダイムそのものの修正が必要になる。起こらなかった事件、防げた事件は見えないがゆえに、ないことにはなかなか気付かれない。従って、事件が起きなかったときには評価されず、事件が起きたときだけ非難される。この構造が崩れなければ、やはり警察は積極的に動けない。

●容疑者がカトリック教会敷地内で自殺
日本中がクリスマス直前で浮かれ、イルミネーションで盛り上がっている中、馬込政義容疑者は佐世保市郊外のカトリック教会敷地内で自殺した。母親が熱心な信仰を持ち、馬込容疑者も生後間もなく洗礼を受けていたということである。日本には特定の宗教がなく、道徳の荒廃と合わせて色々と議論されることがあるが、今のところこの事件からはその方面からの議論がほとんど起こっていない。死の場所を教会の敷地に選ぶことは、この事件を語る上で避けられない事項であるが、やはり我が国には特定の宗教がないのであろう。全国のカトリック教会で亡くなった2人の冥福を祈られても困るというのが正直なところである。

●裁判における真相解明の不可能
容疑者の自殺により、裁判が開かれることもなく、詳しい動機の解明が永久に不可能になった。死刑の賛成反対論においては、「人殺しをした者は自らの命で償わなければならない」との見解が有力に述べられているところであり、それに基づくならば容疑者の行為は賞賛されるはずである。また、容疑者が命惜しさに稚拙な弁解を繰り返したり、心神耗弱による責任無能力を主張することによって、遺族に二次的被害が生じる危険性もなくなった。それにもかかわらず、この後味の悪さは何なのか。やはり「犯人は国家権力の下に裁判を受け、そこで動機と反省の念をすべて語った上で死刑に処されるべきである」という本筋はビクともしていないからである。これは、「裁判は被告人のためにあるのであって、被害者のためにあるのではない」という近代刑法の大原則に無理があることの証拠でもある。また、死刑賛成論が単に「殺せ、殺せ」と叫んでいるわけではないことの証拠でもある。

小林秀之著 『裁かれる三菱自動車』

2007-12-15 18:58:06 | 読書感想文
「はしがき」より

「本書を出版するにあたっては、ためらいがあった。・・・第6に、関係者の心理にまで立ち入ることの是非である。原告や弁護士の心情まで述べることは、本書の客観性を失わせないかということである。しかし、従来の法律の本が無味乾燥だったのは、逆に関係者の心情にまで踏み込むことを極力避けてきたからではないだろうか。本書のように、関係者の心理的葛藤にまで思いをはせることも、『血のかよった』法律学へのひとつの試みだろう。当事者に感情移入することにより、当事者からみた民事裁判の実像が浮かび上がってこないか、と考えたのである」(p.より抜粋)。


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この本で扱われているのは、平成14年1月10日、走行中の三菱自動車のトレーラーのタイヤが外れて、29歳の母親と息子2人を直撃した事故である。母親の岡本紫穂さんは、140キロのタイヤに衝突して亡くなった。この事件の業務上過失致死罪の刑事裁判については、一昨日に横浜地裁で判決があり、元市場品質部部長らに禁固1年6月(執行猶予3年)の刑が言い渡された。紫穂さんの母親の増田陽子さんは、「刑が軽すぎる。会社が何も問われないのは納得できない。紫穂はもっと納得していないはず」と述べ、「結果はこうだよ。悔しい」と腕の中の遺影につぶやき、約3時間に及んだ判決文の朗読をずっとうつむいたまま聞き入り、涙を何度もぬぐった。これに対し、2人の被告は、判決を不服として即日控訴した。

小林氏は民事訴訟法の大家であり、東大在学中に司法試験に主席合格した頭脳の持ち主である。「眠素」と言われる無味乾燥な民訴を初心者にもわかりやすく説明し、血の通った法律学を目指そうとする手腕には定評がある。しかし、増田陽子さんの一言一言と照らし合わせて見ると、やはりどこかすれ違っているという印象が否めない。この本の帯もそれを物語っている。「横浜母子死傷事故から未曾有の欠陥車事件へ」。「いま明かされる事件と裁判の真実!」。「娘の無念を晴らすために母が起こした民事訴訟は、巨大自動車メーカーを追いつめた」。増田さんの意志は、もちろんこのようなものではない。増田さんは何も娘の無念を晴らすために裁判を起こしたわけではなく、「判決がどうであれ、私は許せない。あの子の人生を戻してほしい」と述べている。小林氏は、ここのところを理解していない。逆に言えば、これが理解できるような感性の持ち主は、東大在学中に司法試験に主席合格するような頭脳の持ち主ではない。

小林氏は、増田さんの心情を述べることによって客観性が失われることを恐れている。それゆえに、増田さんの言葉の深さを処理することができず、心情をカギ括弧に入れたまま述べることしかできていない。「まだ娘の死を受け入れることができない。頭ではわかっていても、心の中に認めたくない気持ちがある。今日も墓参りというより会いに来たという感覚です」。この言葉をそのまま受け止めれば、客観性は崩壊し、民事訴訟法も崩壊するに決まっている。血の通った法律という美名ばかりが何年も宣伝される割には一向に実現されないのも当然である。専門家の学者が当事者に感情移入するという態度でいる限り、客観性は失われることがなく、それゆえに主観性は劣ったものとして見下される。

物理的な世界が客体的に存在するという信仰は、死という最大の問題を回避するがゆえに、娘を不慮の事故で亡くした母親に対して何の回答も示せない。「特殊な経験をした人は冷静さを失い、感情的になり、物事を客観的に考えられない。だから、怒りと悲しみを軽減させ、落ち着いて合理的に話ができるように努力しなければならない。被害者遺族を保護し、救済していくべきである」。このような物言いをされると、ひどく馬鹿にされたような気になる。要するに嵐が過ぎ去るのを待つということであり、被害者というグループの中に分類されて、説明される客体になるだけだからである。娘を亡くした母親の実存的苦悩を記述するのに、客観性のパラダイムは役立っていない。

今年の漢字 「偽」

2007-12-13 14:46:09 | 時間・生死・人生
昨日、日本漢字能力検定協会が主催する年末恒例の「今年の漢字」として、「偽」が選ばれた。平成19年の世相をズバリ表す漢字としては、確かにこれ以外の選択はない。不二家、ミートホープ、白い恋人、赤福、船場吉兆の食品をめぐる偽装、さらには政治資金や年金記録不備の問題も続発した。「偽」の字を書いた清水寺の森清範貫主は、「こういう字が選ばれるのは、誠に恥ずかしく悲憤に堪えない。分を知り、神仏が見ているのだと自分の心を律してほしい」と述べていたが、まず来年も無理であろう。来年こそは「真」のような誇りの持てる漢字が書かれるようになって欲しいと言っても、そんなものは無理である。来年になれば、その来年が今年になるからである。去年の今頃も、「来年こそは・・・」と言っていたのではなかったか。その来年が今年である。

「偽」は、何も今年に始まったことではない。食品をめぐる偽装といえば、雪印や日本ハムを忘れては困る。鉄筋の量を偽った一級建築士もいた。会計帳簿を偽って粉飾決算をした経営者もいた。捜査書類を隠した警察官や郵便物を捨てた郵便局員もいた。タウンミーティングのやらせ問題、NHKのやらせ問題、日本テレビ視聴率買収事件などもあった。隣の国ではES細胞の論文の捏造もあった。自分で石器を埋めて掘り出した考古学者もいた。ちなみに「あるある大事典」の納豆ダイエットのデータ偽装問題は今年の1月であるが、11ヶ月も経ってしまえば、もはや今年の問題として取り上げられることも少なくなった。このような数年来の様々の「偽」を忘れて、「来年こそは・・・」と言ったところで、同じことの繰り返しである。「一体何を信じればいいのか」と言いながら、数年前の事件を忘れているのでは世話ない。

偽装ばかりの世の中で、一体何を信じればいいのか。「何も信じなければいい」、純論理的にはこれが最も正解に近い。他者への信頼は、まさにその対象が他者であることにより、偽装によって維持される。そして、まさに信頼の対象が他者であるがゆえに、信頼は偽装によって崩壊する。その信頼は、監視や疑念の対概念であるがゆえに、両者は同義ではない。他者への信頼は、気の遠くなるような時間のサイクルにおいて、崩壊と再建を繰り返す。これに対し、自己の存在への確信は、まさにその対象が自己であることにより、偽装されることはない。そして、まさに確信の対象が自己であるがゆえに、確信には崩壊の余地がない。その確信は、存在不安や懐疑の対概念であるがゆえに、両者は同義である。自己への確信は、他者への信頼の不信の中にあって、自らにも気付かれないままその姿を必然的に現す。

偽装によって信頼が崩れた、この因果関係は一見明瞭であるが、実際のところは逆である。信頼が偽装を呼び、その信頼を維持するために偽装から抜けられなくなる、因果関係は確かにこのような形をしている。最初から信頼しなければ裏切られることもなく、信頼することによって初めて裏切りという概念が発生するからである。誰も信じることなど強制していないのだから、勝手に信頼して勝手に裏切られて怒ったところで、怒られた方も本気で謝罪するわけがない。何を謝罪してよいのかわからないからである。多くの国民が、白い恋人に対して怒っている時には不二家に対する怒りを忘れ、赤福に対して怒っている時には白い恋人に対する怒りを忘れているのであれば、それが一番賢い方法だろう。赤の他人のことでストレスを溜めてはもったいない。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第3章~第7章

2007-12-12 22:04:03 | 読書感想文
我が国の刑法学でも、純粋な近代学派(新派)の評判は悪く、古典学派(旧派)との折衷説が主流になっている。そもそもロンブローゾは法律家ではなく精神科医であって、近代学派は人間的な部分を切り落としており、あまりに無機質であるとの批判も強い。近代学派を押し進めれば、刑法学は精神科学に吸収されてしてしまうことにもなるが、人間の罪と罰はそんな簡単なものではないからである。現にこれを実践して失敗したのが旧ソ連のロシア共和国刑法典であった。「犯罪の原因は資本主義社会そのものにあり、したがって共産主義社会においては原則として犯罪は消滅するが、例外的に病的因子を持った人間の犯罪行為のみが残る」。このような原理に基づき、社会防衛の手段として刑罰を保安処分に一元化しようとしたが、あまりに単純すぎて上手く行くはずもなかった。

功利主義の割り切った視点は、「終わったことはどうでもいいから過去ではなく未来に目を向けよう」、「反省などしなくてもよい、とにかく犯罪者が再犯をしないことだけが必要である」といったイデオロギーを招来する。いわく、刑罰は犯罪者の改善更生と社会復帰のためのものであって、このような前向きの考え方こそが理想の社会を建設する道である。19世紀後半の社会の混乱期においては、実存不安に基づくニヒリズムの変形としての何らかの目的を求めたい心情と、人間の理性を信頼しすぎた古典主義の無力とが相互に作用していた。そこでは、目的刑の理論が魅力的に捉えられたのも当然であった。「目には目を、歯には歯を」の応報刑論では、刑罰は単に生産性のない後始末の作用であって、夢も希望もないからである。ニヒリズムを恐れる人間は、目的がないという状態にはなかなか耐えられない。

アメリカにおける「正義モデル」と「治療モデル」の対立も、この古典学派(旧派)と近代学派(新派)のパラダイムの影響を受けている。「正義モデル」は、確かに生産性がなく、後味が悪い。改善更生など幻想であり、社会復帰など無理であると言い切ってしまうので、未来志向ではない。しかしながら、目的を求めるのは変形ニヒリズムであるとのニーチェの思想、それを源流とするポストモダンの哲学からすれば、「正義モデル」のほうが哲学的に考え抜かれていることもまた事実である。死刑の問題についても、1人の人間が考え抜いた上で「他人の生命を奪った者は自らの生命で償うしかない」との結論に達したのであれば、世界の潮流など全く関係がない。「治療モデル」や目的刑論は、先に唯一絶対の解答を出しているので、現実を強引に曲げてしまうところがある。そこでは、死刑の是非について自らの頭だけで真剣に考えようとしてしている人に対して、世界の潮流を押し付けて思考停止を強要することになる。

目的刑の理論は、成人に対する刑法よりも、可塑性のある少年により強く該当する。それゆえに、少年事件の被害者は、より強く邪険に扱われる。「治療モデル」からすれば、少年事件の被害者などに気を使っていれば、最大の正義である少年の更生が崩壊するからである。治療モデルは過去を軽視して将来を重視するが、被害者は何よりも過去の償いを求める。この正反対の理論が調和するわけがない。変形ニヒリズムは、少年法の理想によって現実を規定する。すなわち、少年は凶悪な犯罪を犯しているが、弁護士が留置場で面会をしてみると、「本当は」心優しい人間である。「本当は」こんな犯罪をするような人間ではない。犯罪を何回繰り返そうとも、「本当は」悪い人間ではないから、必ず立ち直れる。死刑などもってのほかであり、少年が更生することによってこそ被害者が救われる。これが唯一の正義である。従って、その他の正義を忘れる。