犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

少年審判傍聴制度

2007-12-05 11:49:16 | 言語・論理・構造
犯罪被害者の権利と加害者の権利は両立する、そんな綺麗事を言っていられないのが少年法改正の議論である。ここ数年のトピックは、被害者や遺族が少年審判を傍聴できる制度の導入の是非である。ところが、この賛否両論はほとんどすれ違っている。先日の犯罪被害者週間に開催された「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の大会においては、神戸市連続児童殺傷事件の被害者遺族である土師守さんが、「被害者と遺族の悲しみや怒りを知ることが犯人の少年の更生の第一歩である」と述べた。このような人間としてのごく当然の心情の吐露は、導入反対派にはまず届かない。これは、形式(傍聴制度を導入するかという論点の所在)が完全に噛み合っているが故に、その内容(賛成か反対か)については完全に噛み合っていないという理由による。

賛成・反対論が自らの主張を裏付けようとすれば、その中には当然に哲学的な命題が入り込んでくる。この命題は説得的であるが故に多用されるが、結論を先取りした主張に結び付けられる限りにおいてそれ以上掘り下げられることはなく、その性質上「賛否両論」という論争の形態では処理できない。「遺族の怒りを知れば少年は更生する」という命題と、「遺族に怒られれば少年の更生が妨げられる」という命題とを正面から突き合わせていれば、議論はいつまでも平行線である。逆にいえば、平行線の議論が「賛否両論」という論争の形態である。

傍聴制度の導入反対派は、被害者や遺族が傍聴席にいるだけで無言の圧力になり、更生が妨げられると述べているが、これは語るに落ちている。圧力を圧力と感じるためには、圧力を圧力と感じられるための主体が存在していなければならない。そして、無言を無言と語るためには、すなわち無言を無言と認識するためには、初めに言葉がなければならない。絶句も言葉であり、沈黙も言葉だからである。言葉のないところに絶句も沈黙もない。無言を無言と知り、圧力を圧力と知る以上、すでにそれを知る者には「思い当たる節がある」との解答が先に出ている。更生に障害となると言うならば、それは言葉を恐れているからであり、なぜ言葉を恐れているかと言えば、それは無言によって示される言葉を自ら先取りしているからである。深く反省しているならば、言葉を恐れる理由など何もない道理である。

少年法に詳しい弁護士、少年事件に長年取り組んできた弁護士は、どんなに被害者遺族が目の前で涙をこらえて絶句しようが、それを絶句であると認識しようとしない。このような人権派弁護士の行動は、絶句を絶句と恐れていることの裏返しでもある。少年犯罪は社会の歪みの効果であって、少年はむしろ社会の被害者であり、誰しも純粋で可塑性があり更生が可能であるという理論からすれば、遺族の絶句との間には必然的に文脈の主導権争いが生じる。これを最初から排除してかかろうとすれば、それは自らの文法がこの世のすべてを演繹的に説明し尽くせるとの信仰、もしくは説明し尽くしたいという欲望、さらには説明し尽くさねばならないという肥大した自我を示すことになる。人権論が遺族の人間の叫びを受け止められずに排除するとすれば、それは原理主義がポストモダンによる脱構築に耐えられないことを自ら示しているともいえる。