犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2007-12-02 14:28:24 | 読書感想文
公務員や企業の不祥事が相次ぎ、法改正や職業倫理が叫ばれている。姉歯秀次元一級建築士による耐震偽装の発覚は衝撃を呼んだが、姉歯事件の教訓を生かそうとして大幅に厳格化された建築確認制度が、その後にさらなる混乱を呼んでいる。チェックの厳しい改正法の下では、書類の細かい誤記が見つかっただけで先に進めなくなり、新設住宅の着工はかつてない落ち込みを記録することとなった。他方で、どんなに法律を細かくしても、耐火建材の性能偽装を事前に防ぐことはできなかった。

この笑うに笑えない現状には経済界からも公然と批判が出て、国土交通省はチェックを緩和する方向で省令改正を進めているらしい。今後は一体どうすればいいのか。哲学的にはすでに答えが出ている。


『考える日々』 第Ⅰ章 「倫理とはどこに存在するのか」より p.69~73の随所を変形して抜粋

耐震強度の偽装を厳しくチェックするという法律が制定されるのは、耐震強度の偽装をする人がいるからである。耐火建材の偽装を厳しくチェックするという法律が制定されるのは、耐火建材の偽装をする人がいるからである。つまり、偽装するほうが儲かるからである。その人は、建物が地震で倒れないことよりも、火事で燃えないことよりも、自分が儲かることのほうが好きなのである。

ところで、何よりも金が好きな人に、金を嫌いになれと命じることができるだろうか。建物が地震で倒れようが火事で燃えようが、金儲けのほうを優先するような人に、金を嫌いになれと命じることができるだろうか。これはできない。どうして好きなものを、命じられて嫌いになることができますか。

建築基準法を改正し、外なる規範が強くなるほど、内なる規範は弱くなってゆく。こうして、内省の契機がまたひとつ失われることになる。「偽装をしてはいけない」と命じる前に、「なぜ偽装をしたくなるのか」と問うほうが、順序としては先ではないのか。これらの勘違いはすべて、行為の規範すなわち倫理を、外なる何かに求め得ると思っているところに起因する。そもそも倫理とは、「身につける」ものでは決してない。

いつまでも法律が解決してくれる、誰かが考えてくれる、誰かが答えを出してくれる、事件の教訓を生かして法律を改めるべきである、そう思っている限り、人間は決して倫理的になることができない。誰かが考えて、答えて、決めてくれたものに従っていれば済むのだったら、世に法律なんぞ最初から要らない理屈ではないか。