犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『ロゴスに訊け』   「ネットの言葉に自由はない」より

2007-12-17 18:48:13 | 読書感想文
情報化社会が最も苦手とすることは、1つの事項を掘り下げたり、深めたり、語り継いだりすることである。現代社会では、数か月もかかって何かを掘り下げているうちに、多くの人がその話題をすっかりと忘れてしまう。世論はあっという間に盛り上がり、あっという間に消えてゆく。そして、次の話題に移り、それもまたすぐに消える。今や「人の噂も七十五日」ではなく、「人の噂も三日」である。情報を広く世間に訴えることが可能となった結果、物事の風化が食い止められるわけではなく、逆に情報の洪水に飲まれて風化はいっそう加速する。

吉野家の「テラ豚丼」による関連サイト大炎上が11月30日、ケンタッキーの「ゴキブリ揚げ」による関連サイト大炎上が12月6日、バーミヤンの「ゴキブリラーメン」による関連サイト大炎上が12月10日であった。来年の今頃はもちろんのこと、来週にはほとんどの人が忘れているだろう。このバカバカしさ、空しさを埋めるために、ネットにはまった人間はさらに次なる大炎上を期待し、加担し、盛り上がる。ネット依存症も、ギャンブル依存症や薬物依存症と非常に似ているところがある。そして、誰しも簡単に参加できる点で、さらに危険であり、抜けるのが難しい。


P.16~ 抜粋

出版社の思惑、新聞社の権力などを一足跳びに無視できるインターネットという方法は、言葉の自由のためには画期的ではなかろうかと、当初は私も思ったのである。けれども、やはり、必ずしもそうではないらしい。ちょっと考えれば当然である。愚劣な力関係から自由になったところで、その人の精神が同じく愚劣なままなら、そこに書かれる言葉もやはり愚劣であるに決まっているからである。いや、ひょっとしたら、「愚劣であることの自由」とは、事態はいよいよ最悪なのではなかろうか。

ホームページというのは、つまるところ「自己表現」ということらしいのだが、その表現されるところの自己がナンボのものか、それが問題なのである。なるほど表現することは自由だが、言語とはそれ自体が精神に課するところの必然、必然的形式である。そのことを認識し、自己として自覚することによって、その精神は言語となる。したがって、表現されるところのものは必ずしも「自己」ではない。それを自己と呼ぶならば、大文字の「精神」である。何をして楽しかったとか、アタシ悩んでることがあるの、といったこととはおよそ関係がない。

(6年前の2001年の文章である。)

あれから22年

2007-12-17 00:29:01 | 時間・生死・人生
「家の人そして友達へ。突然姿を消して申し訳ありません。くわしい事については○○とか△△とかにきけばわかると思う。俺だって、まだ死にたくない。だけど、このままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だからもう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」。1986年(昭和61年)2月1日、いじめを苦にして自殺した当時中野富士見中学2年生の鹿川裕史君の遺書である。顔にマジックでヒゲを書かれ、廊下で踊らされ、服にマヨネーズを掛けられ、教師も加わって「葬式ごっこ」をされ、ひざ蹴りを加えられ、校庭で歌を歌うことを強制され、靴を便器の中に投げ込まれて、彼は自殺するしかなかった。

あれから約22年、遺書で名指しされた○○君や△△君、「葬式ごっこ」に名を連ねたクラスメイトは、現在では35歳になっているはずである。幸せな家庭を築いている人もいるだろう。息子や娘が小学生になっている人もいるだろう。その子どもがまた学校でいじめたりいじめられたり、同じ苦労を味わっているかも知れない。このように考えると気が遠くなるが、事実は事実である。抽象的ないじめ論議を繰り広げたところで、人生の一回性が捉えられるわけもない。鹿川裕史君の事件を1つのケースとして教訓を得ようという試みは、この22年間でほとんど成功しているようには見えない。

1986年、「生きジゴク」「葬式ごっこ」の単語が日本中に衝撃を与えた地点に時間を戻してみる。さて、我々はこれからどのような世の中を作るべきか。10年後は1996年であり、20年後は2006年である。21世紀には、きっといじめのない理想的な社会が到来しているだろう。いや、絶対にそうしなければならない。そうでなければ、鹿川君の死が無駄になるではないか・・・。20年前の新聞を見てみれば、確かにこのようなことが書いてある。ところが、今やネットいじめが全盛であり、中学生の4人に1人がうつ状態らしい。我々はこんな世の中を作るために20年間も努力してきたのか? 我々は20年もかけて、こんな世の中を作ってしまったのか? このような考え方はあまりに身も蓋もないため、禁句として無視される。そして、我々は改めて無理な決意をする。20年後には、きっといじめのない理想的な社会が到来しているだろう。いや、絶対にそうしなければならない。

遺書で名指しされた○○君や△△君は今どこで何をしているのか、このような視点は数々の哲学的な問題を掘り起こす。しかしながら、プライバシーという概念で捉えてしまうと、事態は途端に平板になる。人間の存在論的な問題は、逆説によって描かれるべき事項であり、法律単語ではいかにも力不足であることがわかる。最近は個人情報保護法によって、自殺した生徒の個人名も匿名にされるばかりか、鹿川裕史君や大河内清輝君の名前まで実名を出すのが憚られる状態になってしまった。「鹿川裕史君」という単語が引き出す一連のクオリア、記憶の束の重要性を考えると、ここでもプライバシーという概念が大きな損失をもたらしていることがわかる。遺書を書いて自殺したのが誰なのか、今後はその顔も名前もわからないならば、鹿川裕史君の時のような国民的な議論は起こりにくくなる。