犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

星野博美著 『のりたまと煙突』

2007-12-06 19:52:05 | 読書感想文
第10章 松 「中央線の呪い」より

思い出したように「人命の重さ」が語られることがある。もちろん全く思い出さないよりはましであるが、そもそも「人命の重さ」を思い出すという行為が偽善を含んでいるのだから、その重さは政治的な主義主張に結び付けられて利用されることがほとんどである。他者に向かって熱くなってその重さを主張するならば、熱が冷めればすぐに忘れられる。思い出しては忘れられ、また思い出しては忘れられ、この繰り返しである。

近年、鉄道の人身事故が非常に多く、特にラッシュ時などは列車の遅延や振り替え輸送で大騒ぎとなる。ところが、人命が何よりも重いのであれば、会社に遅れるといった些細なことでイライラする理由はない。駅と駅の間で電車内に何十分も閉じ込められようが、人の命の重さに比べたら大した問題ではない。ましてや、人の命が失われたことを重く受け止めるべきであれば、遅延証明書をもらうのにストレスを溜めたり、八つ当たりで駅員を怒鳴りつける理由などない。鉄道会社のほうも、電車が遅れたことのお詫びの放送を第一に考えるとは、人命の重さをいったい何だと思っているのか。論理的にはどうしてもこのような問いが起きる。

他者に「人命の重さ」を語るのであれば、自らこのような正論に則って生きなければ説明がつかない。それができないのならば、「人命は軽い」と語る方がよほど正直である。


p.252~ 抜粋

乗客に適切な判断をさせるための情報公開のつもりなのか、東西線の車掌は阿佐ヶ谷駅の状況を逐一車内放送でアナウンスし、それはさながら人身事故処理の実況中継のようだった。車掌は「飛び込み自殺」とか「遺体」といった、直接死を連想させる言葉は決して使わない。「回収」―― この事務的な響きはかえって、遺体がバラバラに散らばっているグロテスクな光景を連想させる。

事故で多くの乗客が他の路線に移動した、本来混んでいるはずの中央線はガラガラだった。悠々とシートに座り、汗を拭きながら、1時間の遅刻という失態は犯したが今日はなかなか冴えてるな、と思い、その瞬間背中がすうっと寒くなった。1人の人が命を絶ったというのに。しかもその人は、私が自転車を飛ばしていた時間に阿佐ヶ谷駅のホームに立ち、この世に別れを告げていたというのに。

大学生の時、乗っていた中央線に誰かが飛び込んだ時、どんな人だったのか、どんな事情があったのか、何を思いながらこの電車に飛びこんだのかを考えたら、しばらくうなされたものだった。それがいまでは、死にゆく者の無言のメッセージに思いを馳せることもなく、ただ考えることといえば自分の予定に変更が生じたことへの苛立ちと、早く、安く、うまく目的地へ到達する方法なのである。なんというおぞましさだろう。

そしてさらに驚いたのは、三鷹から中野までの走行時間、待ち時間を含めてもせいぜい2、30分の間に、「回収」から現場検証、そして復旧までのすべてが済んでしまったあまりの手際の良さだった。彼、あるいは彼女がどのような思いで列車に飛びこんだのか、私には永遠にわからないが、もしもその魂がこの30分間、現世の人間たちを眺めていたとしたら、もう一度死にたくなってしまったかもしれない。