犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小谷野敦著 『すばらしき愚民社会』

2007-12-19 21:57:54 | 読書感想文
近年になって「犯罪被害者の人権論」が唱えられてきたが、これは人間の実感に沿う人権論、生活に密着した人権論である。建前としての「被疑者の人権=無罪の推定」や「出所者の人権=社会復帰」がなかなか理解を得られなかったことに比べると、この世論のバランス感覚は実に自然である。どこの国でも、アカデミズムでは左が多数派、ジャーナリズムでは左がやや多数派、大衆においては保守が多数派である(p.77)。どんなにインテリが左翼的な人権論を唱え、市民による権力の監視を唱えたところで、その市民とは大衆のことであるから、アカデミズムの理屈がそのとおりに実現することは少ない。

「犯罪被害者の人権論」が唱えられてきた時期と、日本の右傾化が指摘されてきた時期とは一致している。もちろんこれは無関係ではない。犯罪被害者が無視され続けてきたのは、明らかにアカデミズムやジャーナリズムにおいて左派が多数を占めてきたことによる波及的効果である。これは、学問と政治が混同されてきたことの効果でもある。学問は万人にとっての共通の真理を追究する営みであるが、政治は多数派形成による権力争いを本質とする。マルクス主義以来、政治と研究の区別がつかない学者が圧倒的になってしまったが、政治活動をしたいならば研究活動とは別にすればよい(p.130)。

保守的な人々は頭が固く、革新的な人々は物わかりがいい。保守派はお説教ばかりして若者に嫌われるが、革新派は若者に対して非常に物わかりが良く、広く支持される。このような一般的な傾向は確かにある。そして、アカデミズムでは左が多数派であるという現実は、このインテリ特有の物わかりの良さに支えられてきた。この構図が極端に表われるのが少年犯罪である。現在でも少年犯罪をめぐる問題においては、「犯罪被害者の人権論」と従来の人権論とが特に鋭く衝突している。この問題は、「少年」などという法律用語に振り回されず、単に「若者」と言えば済む話である。インテリは若者に「話のわかるヤツ」だと思われたいがため、いい歳をしても若者に媚びる(p.183)。左派のエリート意識が特に少年事件において強烈に表われることは、単なる偶然ではない。

憲法学や刑事法学は左派が多数派を占める典型的な領域である。そこでは、暴力的表現を許容することは進歩的であり、古臭い道徳によってこれらを縛るのは時代錯誤であるという見解が通説となっている。暴走族が爆音をまき散らしているのを条例で規制しようとすれば、それは集会の自由に対する人権侵害であるといって争われ、住民の迷惑は見落とされる。このような図式で見てみれば、革新的な人々が少年の恐喝や万引きに対して寛容であり、オヤジ狩りやリンチなどに対して無条件の深い理解を示していることも理解できる。その反面、警官による暴行や教師の体罰は絶対に許さないことも理解できる。左派のエリート意識は、自らが保守的な人間と見られることを何よりも恐れる(p.219)。そして、被害者に感情移入するのは愚かな一般大衆であり、自分は彼らとは違って真理を知っているとの自負がある。