犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小林秀之著 『裁かれる三菱自動車』

2007-12-15 18:58:06 | 読書感想文
「はしがき」より

「本書を出版するにあたっては、ためらいがあった。・・・第6に、関係者の心理にまで立ち入ることの是非である。原告や弁護士の心情まで述べることは、本書の客観性を失わせないかということである。しかし、従来の法律の本が無味乾燥だったのは、逆に関係者の心情にまで踏み込むことを極力避けてきたからではないだろうか。本書のように、関係者の心理的葛藤にまで思いをはせることも、『血のかよった』法律学へのひとつの試みだろう。当事者に感情移入することにより、当事者からみた民事裁判の実像が浮かび上がってこないか、と考えたのである」(p.より抜粋)。


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この本で扱われているのは、平成14年1月10日、走行中の三菱自動車のトレーラーのタイヤが外れて、29歳の母親と息子2人を直撃した事故である。母親の岡本紫穂さんは、140キロのタイヤに衝突して亡くなった。この事件の業務上過失致死罪の刑事裁判については、一昨日に横浜地裁で判決があり、元市場品質部部長らに禁固1年6月(執行猶予3年)の刑が言い渡された。紫穂さんの母親の増田陽子さんは、「刑が軽すぎる。会社が何も問われないのは納得できない。紫穂はもっと納得していないはず」と述べ、「結果はこうだよ。悔しい」と腕の中の遺影につぶやき、約3時間に及んだ判決文の朗読をずっとうつむいたまま聞き入り、涙を何度もぬぐった。これに対し、2人の被告は、判決を不服として即日控訴した。

小林氏は民事訴訟法の大家であり、東大在学中に司法試験に主席合格した頭脳の持ち主である。「眠素」と言われる無味乾燥な民訴を初心者にもわかりやすく説明し、血の通った法律学を目指そうとする手腕には定評がある。しかし、増田陽子さんの一言一言と照らし合わせて見ると、やはりどこかすれ違っているという印象が否めない。この本の帯もそれを物語っている。「横浜母子死傷事故から未曾有の欠陥車事件へ」。「いま明かされる事件と裁判の真実!」。「娘の無念を晴らすために母が起こした民事訴訟は、巨大自動車メーカーを追いつめた」。増田さんの意志は、もちろんこのようなものではない。増田さんは何も娘の無念を晴らすために裁判を起こしたわけではなく、「判決がどうであれ、私は許せない。あの子の人生を戻してほしい」と述べている。小林氏は、ここのところを理解していない。逆に言えば、これが理解できるような感性の持ち主は、東大在学中に司法試験に主席合格するような頭脳の持ち主ではない。

小林氏は、増田さんの心情を述べることによって客観性が失われることを恐れている。それゆえに、増田さんの言葉の深さを処理することができず、心情をカギ括弧に入れたまま述べることしかできていない。「まだ娘の死を受け入れることができない。頭ではわかっていても、心の中に認めたくない気持ちがある。今日も墓参りというより会いに来たという感覚です」。この言葉をそのまま受け止めれば、客観性は崩壊し、民事訴訟法も崩壊するに決まっている。血の通った法律という美名ばかりが何年も宣伝される割には一向に実現されないのも当然である。専門家の学者が当事者に感情移入するという態度でいる限り、客観性は失われることがなく、それゆえに主観性は劣ったものとして見下される。

物理的な世界が客体的に存在するという信仰は、死という最大の問題を回避するがゆえに、娘を不慮の事故で亡くした母親に対して何の回答も示せない。「特殊な経験をした人は冷静さを失い、感情的になり、物事を客観的に考えられない。だから、怒りと悲しみを軽減させ、落ち着いて合理的に話ができるように努力しなければならない。被害者遺族を保護し、救済していくべきである」。このような物言いをされると、ひどく馬鹿にされたような気になる。要するに嵐が過ぎ去るのを待つということであり、被害者というグループの中に分類されて、説明される客体になるだけだからである。娘を亡くした母親の実存的苦悩を記述するのに、客観性のパラダイムは役立っていない。