犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第3章~第7章

2007-12-12 22:04:03 | 読書感想文
我が国の刑法学でも、純粋な近代学派(新派)の評判は悪く、古典学派(旧派)との折衷説が主流になっている。そもそもロンブローゾは法律家ではなく精神科医であって、近代学派は人間的な部分を切り落としており、あまりに無機質であるとの批判も強い。近代学派を押し進めれば、刑法学は精神科学に吸収されてしてしまうことにもなるが、人間の罪と罰はそんな簡単なものではないからである。現にこれを実践して失敗したのが旧ソ連のロシア共和国刑法典であった。「犯罪の原因は資本主義社会そのものにあり、したがって共産主義社会においては原則として犯罪は消滅するが、例外的に病的因子を持った人間の犯罪行為のみが残る」。このような原理に基づき、社会防衛の手段として刑罰を保安処分に一元化しようとしたが、あまりに単純すぎて上手く行くはずもなかった。

功利主義の割り切った視点は、「終わったことはどうでもいいから過去ではなく未来に目を向けよう」、「反省などしなくてもよい、とにかく犯罪者が再犯をしないことだけが必要である」といったイデオロギーを招来する。いわく、刑罰は犯罪者の改善更生と社会復帰のためのものであって、このような前向きの考え方こそが理想の社会を建設する道である。19世紀後半の社会の混乱期においては、実存不安に基づくニヒリズムの変形としての何らかの目的を求めたい心情と、人間の理性を信頼しすぎた古典主義の無力とが相互に作用していた。そこでは、目的刑の理論が魅力的に捉えられたのも当然であった。「目には目を、歯には歯を」の応報刑論では、刑罰は単に生産性のない後始末の作用であって、夢も希望もないからである。ニヒリズムを恐れる人間は、目的がないという状態にはなかなか耐えられない。

アメリカにおける「正義モデル」と「治療モデル」の対立も、この古典学派(旧派)と近代学派(新派)のパラダイムの影響を受けている。「正義モデル」は、確かに生産性がなく、後味が悪い。改善更生など幻想であり、社会復帰など無理であると言い切ってしまうので、未来志向ではない。しかしながら、目的を求めるのは変形ニヒリズムであるとのニーチェの思想、それを源流とするポストモダンの哲学からすれば、「正義モデル」のほうが哲学的に考え抜かれていることもまた事実である。死刑の問題についても、1人の人間が考え抜いた上で「他人の生命を奪った者は自らの生命で償うしかない」との結論に達したのであれば、世界の潮流など全く関係がない。「治療モデル」や目的刑論は、先に唯一絶対の解答を出しているので、現実を強引に曲げてしまうところがある。そこでは、死刑の是非について自らの頭だけで真剣に考えようとしてしている人に対して、世界の潮流を押し付けて思考停止を強要することになる。

目的刑の理論は、成人に対する刑法よりも、可塑性のある少年により強く該当する。それゆえに、少年事件の被害者は、より強く邪険に扱われる。「治療モデル」からすれば、少年事件の被害者などに気を使っていれば、最大の正義である少年の更生が崩壊するからである。治療モデルは過去を軽視して将来を重視するが、被害者は何よりも過去の償いを求める。この正反対の理論が調和するわけがない。変形ニヒリズムは、少年法の理想によって現実を規定する。すなわち、少年は凶悪な犯罪を犯しているが、弁護士が留置場で面会をしてみると、「本当は」心優しい人間である。「本当は」こんな犯罪をするような人間ではない。犯罪を何回繰り返そうとも、「本当は」悪い人間ではないから、必ず立ち直れる。死刑などもってのほかであり、少年が更生することによってこそ被害者が救われる。これが唯一の正義である。従って、その他の正義を忘れる。

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