犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

悪魔の証明

2007-12-09 14:33:19 | 時間・生死・人生
悪魔の証明とは、「○○という事実・現象が全くない」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明することである。法律学における立証責任の分配の説明において、「ないことを証明することは難しい」という文脈において用いられることが多い。よく使われる例として、「アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を1匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難であり、事実上不可能であるという例が挙げられる。これが悪魔の証明である。

我が国の民事訴訟法と要件事実論においても、この「ないことを証明することは難しい」というカテゴリーが技術的に研究され、裁判における立証責任の分配において精密に展開されている。例えば、建物の所有権に基づく立ち退き請求においては、家主が「占有者に権限がない」ことを証明するのではなく、占有者のほうが「自分に権限があること」を証明しなければならない。すなわち、家主が「占有者に権限がない」ことを証明しようとすれば、賃借権の更新がないこと、自動更新がないこと、地上権の設定がないこと、使用貸借契約がないことといった多くの事実がないことを証明しなければならない。これが非常に困難であり、事実上不可能であるということは、多くの法律家が支持するところである。

しかしながら、「非常に困難である」「事実上不可能である」という命題は、確率的にゼロではなく、証明できる可能性はわずかながら残されていることを意味している。なぜ「100パーセント不可能だ」「絶対に無理である」と断言できないのか。これは、哲学の存在論を抜きにして、法律学によって「ないこと」を取り扱おうとする場合に必然的にぶつかる限界である。

存在論からすれば、無は無なのだから、ないものを証明できるわけがない。証明できれば無ではないからである。従って、法律学に言うところの「ないこと」とは、「『ないこと』があること」を意味しており、やはり「あること」を語っているにすぎないことがわかる。そもそも「あるもの・ないもの(物)」ではなく「あること・ないこと(事)」を立証の主題に置いている時点で、すべては「ある」しかない。抽象名詞の実体化が先にあるからである。ないことはないのだから、その契約書がないのも当たり前のことであって、その「ないこと(事)」を「あること(事)」に置き換えたところで、契約書という「ないもの(物)」は「あるもの(物)」にはならない。

在るものは在り、無いものは無い。しかし、無いものが無いならば、どうして「無いものが無い」と言えるのか。これが存在の謎である。法律学の証明の理論以前の問題として、そもそも「無い」ということは無い。「無い」が無ければ、「無い」と言えるはずもなく、「無い」ということによって「在る」ことを語っているからである。賃貸借契約がない、地上権の設定がない、使用貸借契約がないといった「ないこと」が無数にあるということは、「ないもの」を「あるもの」として妄想することによってのみ可能となる。それは「ある」ことを語るのみであって、「ない」ことについては語っていない。悪魔の証明の理論は、この世の金銭欲と物欲の交通整理の道具としては使い道があるが、それを超えればお手上げである。