犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

理由をつけてから冥福を祈る人はいない

2007-12-18 22:01:01 | 時間・生死・人生
長崎県佐世保市の散弾銃乱射事件では、倉本舞衣さん(享年26歳)と藤本勇司さん(享年36歳)の命が奪われた。2つの尊い生命が失われた。2つの消えた命が戻ることはない。人の命は地球より重い。さて、このような文字を追っていると、ふと気が付くことがある。失われた生命は3つではないのか。そのとおりである。馬込政義容疑者(享年37歳)も自殺し、そのたった1つの命がこの世から消えた。世界に1つしかない命が同じように失われたのに、人間の生命には差があるのか? 命の重さに上下があるのか? 我々は「3つ」の尊い生命が失われたことを厳粛に受け止めるべきではないのか? 改めてこのように問われてみると、なかなか理屈では即答しにくい。

この種の問いは、大事件や大事故のたびに現れることがある。平成17年4月25日のJR福知山線脱線事故においては、107人の命が奪われたが、そのうちの1人は運転士であった。JR西日本は、事故後に何回も追悼慰霊式を行っているが、慰霊の対象は乗客106人に限っており、常に運転士は除かれている。さて、人の命は地球より重いのに、運転士の命は重くないのか? もう少し前、平成13年1月26日には、JR新大久保駅において、酔ってホームから転落した男性と、その男性を助けようとして線路に降りた男性2人が山手線にはねられて死亡するという事故があった。日本中から2人の勇気ある行動に賛辞が送られ、多くの人が2人の死を悼んだ。しかし、亡くなったのは3人ではないのか? 人間の生死に差をつけることができるのか?

このような問いは、一見すれば盲点を突いているようにも見える。ところが、「改めて問われてみるとわからない」というこの問いの形式において、この問いは入口が逆である。哲学的な問いのように見えて、実は哲学とは似て非なるものである。我々はどういうわけか、改めて問われる前に、自ら解答を出している。佐世保市の散弾銃乱射事件では、殺された2人の冥福は祈りたいが、自殺した犯人の冥福は祈りたくない。福知山線脱線事故や、新大久保駅転落事故も同じである。いずれ死ぬべき存在である人間はなぜか、他者の死に直面して、瞬間的に結論を出していざるを得ない。理屈によって論理的に説明することはできないが、冥福を祈る死と祈らない死がある。改めて「命の重さに差をつけるのか」と問われて悩む、それ以前に人間の倫理は一定の結論を指し示している。この恐るべき現実を見落としては、哲学的な問いもあり得ない。

このような人間の倫理は、死刑存置論と死刑廃止論の対立においても如実に現れる。死刑は国家権力による殺人ではないのか? 生命の重さを示すのに、国家が殺人を犯すのは自己矛盾ではないのか? 改めてこのように問われてみると、やはりなかなか理屈では即答しにくいところがある。しかし、我々はどういうわけか犯罪者や死刑囚の冥福など祈りたくない。アメリカ同時多発テロで飛行機を操縦してビルに突っ込んだ犯人や、イラクのフセイン大統領の生命も地球より重いはずだが、どうしても冥福を祈りたくない。池田小学校殺人事件で死刑になった宅間守被告の冥福も祈りたくない。祈りたくないから祈りたくないのであり、他に理由などない。人間の直観が先にあって、それを正当化するために後から理由をつけているという現実は、実証科学からは消極的に捉えられている。しかし、どこの世界に理由をつけてから死者の冥福を祈る人間がいるだろうか。

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