犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

佐世保市 散弾銃乱射事件

2007-12-16 21:35:38 | 時間・生死・人生
●日本の銃社会化
長崎県元知事の殺害、立てこもり発砲事件、佐賀県や高知県の殺人事件など、日本でも銃による事件が増えてきた。この原因を考えていくと、いつの間にか「原因」ではなく「結果」を語ってしまっていることが多い。商品の過剰供給により銃の値段が下落して以前よりも簡単に手に入るようになった、インターネットの時代には水面下で取引がなされて警察による把握ができないといった原因を示されても、それは結果論である。「銃が悪いのか、銃を使う人間が悪いのか」という問いもあるが、何十年経っても答えが出ないのは、問題の立て方自体が下手だからである。両方悪いという結論で納得できないならば、それは数量的に悪の割合を計測できるという誤解に基づくものである。二者択一の答えなど出ない。

●民事不介入の原則
馬込政義容疑者は、銃を持って歩き回る姿を多数の人から目撃されており、近くの住民も「何か起こすんじゃないかと思っていた」と話している。交番に訴えた人は、警察官から「他人がとやかく言うことではない」と追い返されたそうである。これも何十年も前から議論されていることであり、民事不介入の原則とも関連して、なぜ警察はもっと早く動かなかったのかという非難が起きるところである。この非難を避けようとすれば、「警察官が個人の銃の所持に積極的に口出しすることは国家権力による市民への人権制約である」というパラダイムそのものの修正が必要になる。起こらなかった事件、防げた事件は見えないがゆえに、ないことにはなかなか気付かれない。従って、事件が起きなかったときには評価されず、事件が起きたときだけ非難される。この構造が崩れなければ、やはり警察は積極的に動けない。

●容疑者がカトリック教会敷地内で自殺
日本中がクリスマス直前で浮かれ、イルミネーションで盛り上がっている中、馬込政義容疑者は佐世保市郊外のカトリック教会敷地内で自殺した。母親が熱心な信仰を持ち、馬込容疑者も生後間もなく洗礼を受けていたということである。日本には特定の宗教がなく、道徳の荒廃と合わせて色々と議論されることがあるが、今のところこの事件からはその方面からの議論がほとんど起こっていない。死の場所を教会の敷地に選ぶことは、この事件を語る上で避けられない事項であるが、やはり我が国には特定の宗教がないのであろう。全国のカトリック教会で亡くなった2人の冥福を祈られても困るというのが正直なところである。

●裁判における真相解明の不可能
容疑者の自殺により、裁判が開かれることもなく、詳しい動機の解明が永久に不可能になった。死刑の賛成反対論においては、「人殺しをした者は自らの命で償わなければならない」との見解が有力に述べられているところであり、それに基づくならば容疑者の行為は賞賛されるはずである。また、容疑者が命惜しさに稚拙な弁解を繰り返したり、心神耗弱による責任無能力を主張することによって、遺族に二次的被害が生じる危険性もなくなった。それにもかかわらず、この後味の悪さは何なのか。やはり「犯人は国家権力の下に裁判を受け、そこで動機と反省の念をすべて語った上で死刑に処されるべきである」という本筋はビクともしていないからである。これは、「裁判は被告人のためにあるのであって、被害者のためにあるのではない」という近代刑法の大原則に無理があることの証拠でもある。また、死刑賛成論が単に「殺せ、殺せ」と叫んでいるわけではないことの証拠でもある。

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