犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『41歳からの哲学』 第2章 「やっぱり欲しい ―― 年金」より

2007-12-24 14:54:44 | 読書感想文
今年の後半も色々な事件が相次いだが、情報化社会における風化のスピードは速く、すぐに忘れられる。「一人一人が自分のこととして考えましょう」と言われても、自分のことではないのだから、当然すぐに忘れる。そんな中で、年金の話題は1年間ずっと中心にあった。一人一人が自分のこととして考える前に、国民である限り最初から自分のことだからである。特に年金生活だけを楽しみに人生を生きてきた人にとっては死活問題である。

犯罪被害、いじめ自殺といった問題は、多くの人間にとっては対岸の火事であるがゆえに、世論を高めることは難しい。盛り上がってもすぐに消えてしまう。これは、哲学的な論点を含む諸問題を、年金問題と同じ政治的な土俵で論じることの不可能性を意味している。犯罪被害の問題と年金の問題では、あまりに抽象度が違いすぎる。毎日年金のことで頭が一杯の人々に対して、犯罪被害に関する世論を高めるように働きかけても、まず話は噛み合わない。

佐世保の銃乱射事件で、36歳で殺された男性について、「16年間も年金保険料を払い続けたのに年金が1円ももらえないのは残酷であり、犯人に対する怒りが禁じえない」といった形で意見が述べられることはない。レベルが違いすぎるからである。また、「何十年間も保険料を納めたのに年金がもらえないのは不当であり、国民は社会保険庁に怒るべきである」という主張と、「何十年間も大切に育てた息子が殺された悲しみはわかるが、両親は犯人を赦すべきである」という主張とが、なぜか党派的に同じグループだったりする。これでは説得力がない。犯罪被害の問題は、年金問題と同じ政治の土俵には乗らない。


p.78~ 抜粋 (平成16年6月、閣僚の年金未納問題が噴出する中で、年金改革関連法が成立した時の文章である)

私が、公に決められた年金だ税金だ、詮じつめれば共同体の法律規則というものに抵抗しないのは、要するに面倒くさいからである。そういうこの世的なあれこれが、基本的に、どうでもいい。どうでもいいから抵抗しない。抵抗するのは、そういった事柄を何らかの価値だと認めるからだが、私には、そういった事柄が人生の価値だとは、どうしても認められないのである。

それにしても、25年後の年金ねえ。みんな本気で25年後の自分の生活なんてもの、想像しているのだろうか。私にはそんなもの、あの世の生活を想像するくらい不可能に近い。死んでいるならいないのだし、生きているならわからないからである。これって、恐るべき当たり前だと思いませんか。