犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今年の漢字 「偽」

2007-12-13 14:46:09 | 時間・生死・人生
昨日、日本漢字能力検定協会が主催する年末恒例の「今年の漢字」として、「偽」が選ばれた。平成19年の世相をズバリ表す漢字としては、確かにこれ以外の選択はない。不二家、ミートホープ、白い恋人、赤福、船場吉兆の食品をめぐる偽装、さらには政治資金や年金記録不備の問題も続発した。「偽」の字を書いた清水寺の森清範貫主は、「こういう字が選ばれるのは、誠に恥ずかしく悲憤に堪えない。分を知り、神仏が見ているのだと自分の心を律してほしい」と述べていたが、まず来年も無理であろう。来年こそは「真」のような誇りの持てる漢字が書かれるようになって欲しいと言っても、そんなものは無理である。来年になれば、その来年が今年になるからである。去年の今頃も、「来年こそは・・・」と言っていたのではなかったか。その来年が今年である。

「偽」は、何も今年に始まったことではない。食品をめぐる偽装といえば、雪印や日本ハムを忘れては困る。鉄筋の量を偽った一級建築士もいた。会計帳簿を偽って粉飾決算をした経営者もいた。捜査書類を隠した警察官や郵便物を捨てた郵便局員もいた。タウンミーティングのやらせ問題、NHKのやらせ問題、日本テレビ視聴率買収事件などもあった。隣の国ではES細胞の論文の捏造もあった。自分で石器を埋めて掘り出した考古学者もいた。ちなみに「あるある大事典」の納豆ダイエットのデータ偽装問題は今年の1月であるが、11ヶ月も経ってしまえば、もはや今年の問題として取り上げられることも少なくなった。このような数年来の様々の「偽」を忘れて、「来年こそは・・・」と言ったところで、同じことの繰り返しである。「一体何を信じればいいのか」と言いながら、数年前の事件を忘れているのでは世話ない。

偽装ばかりの世の中で、一体何を信じればいいのか。「何も信じなければいい」、純論理的にはこれが最も正解に近い。他者への信頼は、まさにその対象が他者であることにより、偽装によって維持される。そして、まさに信頼の対象が他者であるがゆえに、信頼は偽装によって崩壊する。その信頼は、監視や疑念の対概念であるがゆえに、両者は同義ではない。他者への信頼は、気の遠くなるような時間のサイクルにおいて、崩壊と再建を繰り返す。これに対し、自己の存在への確信は、まさにその対象が自己であることにより、偽装されることはない。そして、まさに確信の対象が自己であるがゆえに、確信には崩壊の余地がない。その確信は、存在不安や懐疑の対概念であるがゆえに、両者は同義である。自己への確信は、他者への信頼の不信の中にあって、自らにも気付かれないままその姿を必然的に現す。

偽装によって信頼が崩れた、この因果関係は一見明瞭であるが、実際のところは逆である。信頼が偽装を呼び、その信頼を維持するために偽装から抜けられなくなる、因果関係は確かにこのような形をしている。最初から信頼しなければ裏切られることもなく、信頼することによって初めて裏切りという概念が発生するからである。誰も信じることなど強制していないのだから、勝手に信頼して勝手に裏切られて怒ったところで、怒られた方も本気で謝罪するわけがない。何を謝罪してよいのかわからないからである。多くの国民が、白い恋人に対して怒っている時には不二家に対する怒りを忘れ、赤福に対して怒っている時には白い恋人に対する怒りを忘れているのであれば、それが一番賢い方法だろう。赤の他人のことでストレスを溜めてはもったいない。