犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

殺された息子に裁判を見せたい

2007-12-01 13:35:12 | 言語・論理・構造
社会に向かって遺影を掲げたい。自分の愛する人が生きていた証を広く見せたい、そして殺された理不尽さを知ってほしい。このような心情は、余計な知識のない人間であれば、誰もが瞬間的にわかるものである。これまでの数々の公害や薬害、さらには戦後補償や労災に伴う記者会見を思い起こせばすぐに理解できる。ところが、遺族が法廷に遺影を持ち込み、裁判官と被告人の前で遺影を掲げる場合には、数々の人工的な概念が混入し、それが処理しきれなくなる。

「息子に裁判を見せたい」、これはもちろん比喩である。語り得ぬものを語ろうとするならば、逆説と反語は欠くことができない。行間を読むことによって、逆説的な真理が提示される。従って、「息子に裁判を見せたい」で十分であり、これによってすべては語り尽くされている。ところが、裁判の論理はこの逆説的な真理を扱いきれない。もちろん比喩であることはわかっているが、裁判はそのような場ではなく、公訴事実(訴因)という人工的な言語を確定するする空間である。ここで裁判の論理は遺族に逆襲する。「息子に裁判を見せたい」と言っても、見えるわけがないだろう。死んでいるのだから。

裁判官や被告人が遺影を見れば裁判に悪影響を及ぼす、これが法律の論理である。被告人には無罪の推定が及んでおり、被告人は加害者でも犯人でもない。被告人は公開裁判を受ける権利を保障されているが、これは公正な裁判であることを国民が監視するものであって、遺影の持ち込みはその趣旨に反する。このような裁判の論理は筋が通っている。しかし、遺族が無効にしたいのはその筋の存在そのものである。「遺影を被告人と裁判官に見せつけるのではない、息子に被告人と裁判官の顔を見せたいのだ」。裁判の理屈からすればこれほど不正確な表現もなく、哲学からすればこれほど正確な表現もない。

この世の問題は人間の生死に尽きるとする哲学の論理と、公訴事実を確定することを至上命題とする裁判の論理とは、絶対に噛み合わない。語り得ぬものを示そうとする言語と、語り得ぬものを徹底的に排除しようとする言語のすれ違いである。言語ゲームの階層性はここにも表れている。客観的な実証科学からは、写真がものを見るわけがないのだから、遺族の気が狂っていると定義付けるしかない。そして、遺族の心のケアをして、合理的に話ができる状態になるまで落ち着くのを待つという方向に流れる。かくして、怒りや悲しみは評価されず、立ち直りや赦しが高く評価されることになる。

遺族が怒りや悲しみを合理的な言語で表現できないとなれば、実証科学は、自らレトリックとしての逆説の形式を使う。いわく、「そのようなことをして、天国にいる息子さんが果たして喜ぶのでしょうか」。余計なお世話であろう。息子は喜ぶに決まっている。喜ばないならば、最初から遺影を見せようとするわけがない。殺された息子を守るのは残された親しかおらず、裁判官も赤の他人である。語り得ぬものを排除すればするほど真実は逃げ、語り得ぬものを語れずに苦しめば苦しむほど真実は近づく。「息子に裁判を見せたい」、現実はこのような形でしか現われない以上、これ以上の現実はない。このような言葉について、まだ遺族が心の傷が癒えていないことの根拠として捉えるならば、その後の理屈はすべて不純である。

参考文献
甲南大学 刑事訴訟法教室
http://kccn.konan-u.ac.jp/law-school/online/cases/index11.html