犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

悪くないのに「すみません」

2007-12-03 15:54:03 | 言語・論理・構造
上司 「何でこんな単純な間違いをするんだ!」
部下 「すみません」
上司 「間違いには気をつけろって言ってるだろう!」
部下 「申し訳ございません」
上司 「何で12月5日が水曜日なんだ! 木曜日だろう!」
部下 「はい」
上司 「大至急で書類を作り直せ!」
部下 「はい。あの~」
上司 「何だ!!」
部下 「12月5日は水曜日なんですが・・・」
上司 「そういうことは早く言え!」
部下 「すみません」
上司 「俺が言ったことが全部無駄になるだろう! わかってるのか!」
部下 「すみません。反省しています」
上司 「君は本当に行動が遅いし、普段から間違いも多いな!」
部下 「申し訳ありません」
上司 「今度から間違いのないように気をつけろ!」
部下 「今後気をつけます。失礼します」


これは簡単な言語ゲームの例である。「すみません」という謝罪の言葉は、文法上は間違えを犯した者が用いる言葉である。ところが、人間は辞書に従って行動しているわけではない。間違っていない者が間違いをした者に対して、単にその場をやり過ごすためにのみ「すみません」と言うことも多い。これは、その場面に至るまでに言語によって作り上げられた上司・部下の権力関係に基づく。何も間違いを犯していないのに「すみません」と謝罪しっ放しのこの部下は、企業の論理からすれば恐らく正しく、労働者の論理からすれば恐らく間違っている。それでは、文法的には正しいのか。

ウィトゲンシュタインは、前期の『論理哲学論考』における厳密な写像関係を、自ら後期の『哲学探究』で完全にひっくり返してしまった。論理学を中心として世界を説明し尽くしたとする前期のモデルは無理であることを自ら認め、日常言語に即した後期の言語哲学のほうが世界を正しく説明できていると考えた結果である。後期哲学の核心が言語ゲーム論である。すなわち、言葉というものは厳密に定義されて使われることはできず、それぞれ具体的な場でスムーズに働いていざるを得ないというものである。ウィトゲンシュタインは、この転換に至る中間期において小学校教師をしていたが、暴力教師として問題ばかり起こし、失意のうちに退職させられている。暴力教師ウィトゲンシュタインと生徒との間で、最初の例のようなやり取りがなされていたと想像するのは面白い。

前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の各論である法実証主義は、後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』でその根底を揺るがされている。有名な「石板」の例は、法律の単語にもそのまま当てはまる。「売買」という言語記号が、午後になると突然「賃貸借」に変わっていたとしても、相互に言葉のルールがずれている違う世界に住んでいるならば、それを間違いだと言うことができなくなる。ましてや、「未必の故意」と「認識ある過失」の区別に至っては、同じ言語記号であっても、ある内的事態を本当に上手く他者に伝えられるのか疑わしい。事実を規範にあてはめるという思考方法自体を揺るがしているのが後期ウィトゲンシュタインである。