犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

命の線引き

2007-12-27 22:08:21 | 時間・生死・人生
12月19日の神戸地裁尼崎支部判決においては、飲酒運転により3人を死亡させた被告人に対し、懲役23年の刑が言い渡された。危険運転致死罪の量刑としては過去最長であるものの、求刑は懲役30年であったことから、裁判所は前例踏襲から抜けていないとの批判も起きた。遺族からは、「3人を死亡させてこの判決にはがっかりだ」、「3人の命が23年の刑で償えるのかと思うと、法廷にいることさえ耐えられなかった」との声が上がった。裁判長は量刑について、2件の事故の併合罪を認めつつ、「危険運転の原因となった飲酒が同一のものであることを考えると、犯行が完全に独立しているとはいえない」と説明している。

12月25日の名古屋高裁の判決においては、飲酒運転により6人を死傷させた被告人に対し、懲役18年の刑が言い渡された。この裁判は、第一審の名古屋地裁では危険運転致死罪の認定がなされず、業務上過失致死傷罪と道交法違反の併合罪によって懲役6年の刑が言い渡されていたものである。裁判の中で争われていたのは、被告人が赤信号を見落としていたのか、それても故意に無視していたのかという点である。刑務所にいる期間が12年間も長くなるか否かという選択肢をぶら下げられれば、被告人としては敏腕弁護士を雇って徹底的に戦い抜くのが当然の行動となり、第一審ではそれが功を奏した。しかし、やはり嘘はどこまでも嘘である。

従来の刑法学は、ある特定の視点で固まっていた。すなわち、「峻厳な国家刑罰権の発動」である。この視点からは、上記の裁判も次のように捉えられる。併合罪の判定をどうするかによって、懲役の長さが7年も変わってしまう。条文の適用をどうするかによって、懲役の長さが12年も変わってしまう。法の解釈一つで、裁判官の判断一つで、被告人の人生が変わってしまう。従って、刑法は峻厳である。法律は重い。刑罰は正義でなければならない。そのためには客観的なルールでなければならず、法的安定性が必要である。何しろ、人間の人生を決めてしまうのだから。個々の事件に目を奪われれば、前例踏襲との批判が起きるが、それは近視眼的で的外れな意見である。前例踏襲こそが法の正義であり、罪刑法定主義の根幹である。刑法学のテキストを見てみれば、本格的な基本書から大学1年生向けの入門書まで、多くはこのようなことが書いてある。

しかし、この世の現実は、実際にこのような理念で回っているわけではない。大阪高裁での薬害C型肝炎訴訟をめぐる和解協議において、原告団はどのような言葉を語り、国民はそれにどのように納得したのか。「命の線引きは許さない」。「命を返してください」。「人の命より組織が大事なのですか?」。「命のリストの管理があまりにずさんである」。「厚生労働省は国民の命を放置した」。「残された命をかけたい」。「命の切り捨ては許さない」。「命より法規が重いのですか?」。福田首相も、議員立法による全員一律救済を決めた理由につき、「人の命にかかわることだから、無視して通るわけにはいかない」と述べている。後から理屈をつけようとすれば、色々と説明できることは確かである。しかし、大前提として、この世では常にこのような言葉が語られており、尽きることがない。

被害者遺族が、「犯人が逮捕されたよ」と霊前に報告する。「懲役○年の判決が出たよ」と仏壇に手を合わせる。「こんな判決では墓前に報告できない」と涙を流す。これも尽きることのないこの世の真実の光景である。一方で、司法権の独立が保障された裁判所における判決の言い渡しは、客観的で合理的な近代法治国家の象徴である。他方、死者に語りかけるという行為は、近代国家が最も軽視する非合理的な態様の行動である。この両者がどういうわけか同居していること、ミスマッチでありながらも人間はこのようにしか生きていないこと、この現実がもう少し注目されてよい。形而上と形而下の奇妙な接点は大きなポイントである。薬害C型肝炎訴訟で語られた「命の線引き」の違和感の言語は、「峻厳な国家刑罰権の発動」の前に、そんなに簡単に引き下がれるものなのか。